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人生朝露

人生朝露

マトリックスと荘子 その2。

荘子です。
荘子です。

『Matrix』(1999)。
『マトリックス』と荘子のつづき。

参照:『マトリックス』と胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5102/

マトリックスと荘子 その1。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5053/

『THE MATRIX:PATH of NEO』 Chang tzu。
ウォシャウスキー兄弟も製作を手がけた「MATRIX PATH OF NEO」というゲームで、荘子は“Chuang Tzu(チャン・ツー)”として登場しています(ちなみに、北京語読みだと荘子は「庄子」と書いて“Zhuangzi(ジュアンズ)”)。「Zen garden」だの「China town」だので戦うゲームなので、東アジアの雰囲気というのがもともと前面に出ているわけですが、荘子の使われ方が興味深いので、その辺を。

Chuang Tzu (potential) - Matrix Wiki
http://matrix.wikia.com/wiki/Chuang_Tzu_(potential)

参照:Chuang Tzu
http://www.youtube.com/watch?v=-bPNbHrRNc4

・・・ゲームの中の荘子の登場シーンでは「至楽篇」からの引用があります。

荘子 Zhuangzi。
「莊子之楚、見空髑髏。昂然有形。檄以馬捶、因而問之曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事・斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似弁士、視子所言、皆生人之累也。死則無此矣。子欲聞死之説乎。」莊子曰、「然。」髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下。亦無四時之事、従然以天地為春秋。雖南面王樂、不能過也。」莊子不信曰、「吾使司命復生子形、為子骨肉肌膚、反子父母・妻子・間里知識、子欲之乎。」髑髏深顰蹙曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人間之勞乎。」(『荘子』至楽 第十八)
→荘子が楚の国に赴いたとき、空髑髏を見つけた。荘子は髑髏を打ちながら「あなたは生に執着して人の道を外したがために、こんな姿になったのか?それとも国を滅ぼして処刑されたのか?不善をなして、父母や妻子に汚名が及ばぬよう自ら命を断ったのか?衣食が足りずに飢え死にしたのか?寿命が尽きて死んだのか?」と質問を浴びせたかと思うと、おもむろに髑髏を抱き上げて、髑髏を枕に眠った。
 その夜半、荘子の夢の中にくだんの髑髏が現れてこう答えた「お前の問いは、弁士と呼ばれる連中のそれに似ている。全て生きている人間だからこその悩みで、死んだ私にはすでに関わりのないことだ。死後の世界についてお前は知りたいか?」荘子「知りたいです。」髑髏「死後の世界には、上下の身分もない。四季の移り変わりもない。ゆったりと天地と時を共にするのみだ。この喜びは人の世の天子ですら味わえない至楽なのだ。」荘子は信じられないという表情で「もしあなたの骨肉や皮膚をかき集め、司命に頼んで肉体を蘇生し、魂を呼び戻し、あなたの家族やあなたの故郷へ送り届けることができるとしたら、あなたはそれを望みますか?」と尋ねると、夢の髑髏は顔をしかめてこう言った「どうしてこの至楽の世界を捨ててまで、ふたたび人の世の苦労など味わうだろうか。」

『ENTER THE MATRIX』 骸骨。
"While on a journey, Chuang Tzu found an old skull, dry and parched. With sorrow he lamented and questioned the end of all things. When he finished speaking, he dragged the skull over, and using it for a pillow, lay down to sleep. In the night, the skull came to his dreams and said, 'You are a fool to rejoice in the entanglements of life.' Chuang Tzu couldn't believe this and asked, 'If I could return you to your life, you would want that, wouldn't you?' Stunned by Chuang Tzu's foolishness, the skull replied, 'How do you know it is bad to be dead?'

「夢と現実」「生と死」の対比で描き出す、荘子らしい寓話です。ゲーム中でチャン・ツーが描いていた髑髏の画の元ネタは、おそらくこれだろうと思われます。

「よしあしハ目口鼻から出るものか」 頭蓋骨(The Skull) せんがい。
仙涯(正しくはさんずいなし)という江戸時代のお坊さんの書いた髑髏の禅画です。「よしあしハ目口鼻から出るものか」とあります。この画について鈴木大拙が出した解説書は1970年代には英訳されておりまして、1999年に再出版されています。

参照:Wikipedia sengai
http://en.wikipedia.org/wiki/Sengai

≪62 頭蓋骨(The skull)

 善し悪し、
 それの出てくるのは、
 目、口、鼻からか?

 現代の仏教思想家は、善、悪は、五感のみならず、意識(the intellect)からも生じるというであろう。我々には、なぜ五感だけが、それよりも多くも少なくもなく、与えられているのか私には分からない。もし、六、または七、または八であったなら、この我々の世界は、今とは大いに異なった経験領域となるであろう。知性はというと、その主な利点は、事物を分別することだが、その先に行くことがなく、それは同時に欠点ともなる。すなわち、知性は、ただ分別するのみで、そこに止まってしまう。それ自体を超えることも、それ自体に没することもない。知性の働きは、感覚に依存するが、感覚を超えて、あるは感覚の底部には、何も存在しないとしてしまう。このため、生の真の価値を認めることが出来ない。生きることの真の価値は、感覚の中にあるのではなく、感覚を生かし、働かせることにあるのだ。知性は、家郷を忘れてしまった放蕩息子のようなものだ。源郷を教えてやり、そこへ帰れと言ってやらねばならない。では、その源郷とはどこにあるのだろうか。仙涯はその源郷を、この作品では頭蓋骨をもって表している。
 「よし」と「あし」には同音語による洒落がある。二語いずれも、沼に茂る「あし」(「よし(葦)」)のことである。すでに説明したようにある地域では「よし」だか他へゆくと「あし」と呼ばれる。ところが「よし」は「善し」に「あし」は「悪し」にも通じる。そこで「よし」も「あし」も、頭蓋骨から生えだす同じ植物を指しているのだが、土地が違えば、その名称に関するかぎり、相互に矛盾することにもなる。ある意味ではわれわれの道徳的評価とは、知性によって分別され、時間と場所に左右されてなされる、命名の行為の問題ということである。名指し、指定する行為、すなわち知性の働きが生じたとき、楽園を喪失し、罪の問題が起った。楽園には善悪の問題は存在しない。我々が為し、見たすべてのことが「善し」であった。知性は分別する。そして分別は罪となる。無垢なる智それ自体を知らず、それ自体を超えた智、これこそが、我々が今、必要とするものである。
 そこで、仙涯の頭蓋骨は、時に「よし」(善し)と呼ばれ、時に「あし」(悪し)と呼ばれるあの植物が、盛んに生えてくる源郷であるのだ。知性と五感の乱雑な動きを警戒しないと、頭蓋骨は破れ、知性も五感も破滅してしまう。
 この頭蓋骨は『荘子』の中にある、渾沌の寓話を思いつかせる。新世界を創造し終えた時、神々は考えた、「我々のこの仕事は、友人の渾沌に負うところ大である。あの黙々とした自己滅却的援助がなかったら、この仕事は達成できなかったであろう。彼の貴重な協力に報いて、感謝の意を表しよう」。あれこれ協議した後に、渾沌への好意の礼として、神々自身が楽しんできた感覚器官を五つともすべて、渾沌に供しようと決めた。そこで五つの感覚を一つ一つ渾沌に付与して行った。遂に、この仕事を終了し、神々はその見事な完成を祝っていた。ところが、その最中に渾沌は死んでしまった。
 善と悪の分別がなされたとき、知識の世界が始まった。あるいは、知識が働き始めたとき、善悪が分別された世界となった、というべきか。どちらの表現をとってもかまわない。とにかく無垢が偏在していた楽園にいた間は、我々は自分が何処にいるのか知らなかったのだ。我々は、実に、非存在(non-existent)であったのだ。今は、何処にいるかは知っている。だが、それは、もはや楽園が我々にはないことを意味する。そして、我々はその楽園に憧れる。だが、一体、我々はその失われた楽園を取り戻せるだとうか、これが問題である。仙涯は、またこんなふうにも教えてくれる。

 善し悪しのさ中に
 (我らの)あればこそ
 涼しこの夕風!

 人間であることの特権は、善を悪から分別しうることである。そして、この分別能力があるからこそ、善悪の二者を超越して、無垢の世界に生きることができるのだ。繰り返し言わねばならない。超越とは、放棄、放置、無視、無関心ということではないと。そして、空虚の中では「夕納涼」は楽しめないのだと。楽園は娑婆(忍苦有限の人間の世界)と共存する。楽園は「取り戻す」ものではなく、感得されなければならない。(鈴木大拙著『仙ガイの書画』より)≫

無題。
『無題(The universe)』

参照:フィリップ・K・ディックのリアリティ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5153/

一休宗純(1394~1481)。
『そもそもいずれの時か夢のうちにあらざる、いずれの人か骸骨にあらざるべし。それを五色の皮につつみもて扱うほどこそ、男女の色もあれ。息たえ身の皮破れぬれば、その色もなし。』(『一休骸骨』より)
→人生のうちで、夢でない時などあるのだろうか?骸骨でない人がいるのだろうか?骨を五色の皮で包んで、その上っ面を見て男だの女だのと扱う。死んで上っ面が剥がれたら、そんなものはなくなるさ。

参照:一休さんと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5138/

マトリックスと禅と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5054/

今日はこの辺で。


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