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毎日新聞の「余録」に、「金印偽造事件」(三浦佑之著、幻冬舎新書刊)が紹介されていた。志賀島で発見された「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印が、偽造されたものであるという説。
>甚兵衛が発見したとされる金印は、甚兵衛の兄という人物から博多の豪商の手を経て黒田藩の奉行に提出された。それを藩の儒学者、亀井南冥(なんめい)が鑑定し、「後漢書」の記述を引用して、これは後漢の光武帝が倭国の使者に与えた金印であると論証した
>当時、黒田藩には、修猷(しゅうゆう)館と甘棠(かんとう)館という二つの藩校があった。亀井は甘棠館の館長だった。修猷館も鑑定をしたが、亀井の鑑定に軍配が上がり、甘棠館の名声は大いに上がった。三浦氏は、修猷(しゅうゆう)館にライバル意識を燃やす亀井が、旧知の豪商や奉行と組んで金印を偽造し、歴史的大発見をでっちあげたと推理する
「七つの金印」という明石散人の本(ネット上でのお知り合いに紹介していただいた)とほぼ同じ主張ですな。今の世では、甘棠館は残っていないけど、修猷館は県立高校として名前が残っている。西新駅から降りてすぐのとこ。明治期に金子堅太郎や、黒田のお殿様が支援して・・玄洋社にも関連してくきて・・エロ拓センセも、修猷館の卒業生だし。司馬さんの本にも、満州で会った戦友に修猷(しゅうゆう)館出身の人がいて「修猷館は、大学より偉いんだ」というようなことをしゃべっていたと回顧している部分があった。偏差値とかは良く知らんけど、名門ですな。
「九州街道ものがたり」は、玉名市の「最後の仇討」。
明治に入って江藤新平が「仇討禁止令」を出して、日本の「仇討ち」は犯罪として処罰されるようになったのだけど、正式な手続きに則って仇討ちを行ったのは玉名市での仇討ちであるらしい
(参照)。
文久6年(1861)に、細川藩の藩邸で起きた殺人事件の被害者(こう書くと、時代の空気が台無しだな)、下田平八と中津喜平の遺族は家名断絶、知行は召上の憂き目にあった。家長の非業の死によって、極貧の生活を強いられるようになった家族は、行商をやったり、親戚の家に居候になったりしながらも、加害者である入佐唯右衛門への復讐心を滾らせていた。それから10年後、明治4年(1871)になって、入佐唯右衛門は、山口で逮捕され、肥後へ連行されることとなるが、途上で遺族との談合によって、石原運四郎という役人が入佐を差し出し、遺族の手によって「仇討ち」が成立。下田平八の息子、恒平の手によって入佐唯右衛門は斬首され、中津喜平の妻、寿乃が夫の形見の短刀で喉元を突き刺して仇討を果たした。この仇討ちは、藩によって賞賛され、断絶されていた家名が再興、本来ならば藩命違反になる石原運四郎も処分なしということで、「合法的に行われた」日本最後の仇討ちは玉名でのものになるそうな。
幕末の激動の時代を挟んでの仇討ちで、犯行が幕末、執行が明治。しかも廃藩置県や仇討禁止令の前という時代背景が興味深い。「被害者の人権」というテーマが現代にもあるけれど、百数十年前まで行われていた「仇討ち」はその究極の手段とも言える。もちろん、自分の家族が殺されたりしたら、報復したいとは思うだろうけども、現在の日本の法律では復讐は認められていない。そのときになって考えるしかない。たとえ自分が殺人者になってでも殺す、となるのかというのは、その状況次第でしょう。多分、そうなった時に正常な判断能力は持ち合わせていないだろうけど。
ちなみに、仇討ちは決闘の形式をとると、返討ちにあって被害者が死ぬこともあったし、復仇 (またがたき) といって、敵の方の遺族が仇討ちをすることは禁止されていた。そういえば、どっかの山岳民族で、戦に負けた将軍が帰国してくると戦死者の遺族が集団で仇討ちをするとかいう話を聞いたことがあるな。
日本人にとって「仇討ち」といえば、何と言っても「忠臣蔵」。正確には浅野内匠頭は刑死しているので「仇討ち」ではないのだけれど、太平洋戦争後、GHQによって「忠臣蔵」は出版、公演が禁止されている。封建時代の復讐の物語は、野蛮だと連合国側が判断した結果らしい。現代の我々は、赤穂浪士の側だけでなく、敵役の吉良上野介が名君の一面を持っていることも知っているし、浪士たちの敵討ちが逆恨みによるテロだと考える人もいる。最終的には、赤穂浪士は切腹させられることで決着したのだけど、これは、正当か?不当か?
ちょうど、「被害者や遺族らが「被害者参加人」として法廷の柵の内側に入ることが認められ、被告や情状証人に直接質問したり、検察側の論告と同じように事実関係について意見を述べることができるようになる」という被害者参加制度が話題がニュースに出ている。自分が被害者であったとしたら、法廷の内側で泣き叫んで裁判員の前で「こいつを死刑にして下さい」と訴えるかも知れない。自分が裁判員になるとしたら、そこで心証が大きく動くだろう。そして、それが、真実の究明に繋がるとは思えない。
「それでもボクはやっていない」という映画も話題になっているし、志布志事件で被告人全員の無罪が確定した。40年前の「袴田事件」での主任判事が「彼は無罪だと確信したが、裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断し、討議の結果、死刑判決が決まった」と告白している。袴田受刑者の死刑は執行されていないが、長期に及ぶ拘置所生活の中で精神を患い、まともな会話はできない。本当に無罪ならば、そうなるのは当然だろうし、有罪であったとしても、40年も拘置所にいたらそうなるだろう。神ならぬ人が人を裁くのであるから、当然冤罪事件は起きる。
2年後には、裁判員制度が開始される。匿名のネット上では死刑にしろと叫ぶ人がやたらと多いけど、当事者のいる場所で適切に判断できるか怪しいものですな。ちなみに、内閣府の調査によると、国民の7割が裁判員制度に「参加したくない」と答えている。まぁ、強制なのでそんなことは言っていられない。さて、どうなるのか?
とりあえず、この辺で。