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カテゴリ:映画
この映画について、蠍座の田中支配人はこう書いている。
「オープニングの音楽と映像美にまず魂をもっていかれた。そしてラストシーンに鳥肌が立った。こういうのが出現するからわたしは映画を見ることをやめられない」 その通りだった。ラース・フォン・トリアー監督は初期の「奇跡の海」を見て、この監督の作品は二度と観るまいと思っていたのだが、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で評価を変えた。しかし「アンチクライスト」を観る勇気はなかった。 本作もかなり迷ったが、田中支配人の評価を信じてよかった。唯一無二の境地に達した映画で、大衆的な人気とは無縁だろうが、ヨーロッパ映画のひとつの到達点として永遠に記憶されるべき映画だ。 この映画を観て「奇跡の海」に対する評価さえ変わってしまったくらいだ。人間の魂は何によって救済されるのかというのがこの監督の生涯をかけたテーマだということがわかったからだ。 オープニングの音楽はワーグナーで、全編にわたって使われている。あれは「トリスタンとイゾルデ」だったと思う。音楽同様、オープニングの映像自体は幻想的なもの。映画の本編とは無関係に思えたが、きっと関係があるにちがいないと思って集中して見ていたら本編の内容を見事に暗示するものだった。 「トリスタンとイゾルデ」を聴くときにさえ、もうこの映画と切り離しては聴くことができないと思えるほどのインパクトのあるオープニングである。もし地球滅亡のときが来たなら、世界のすべてのオーケストラはこの曲を演奏し、すべての放送局はこの音楽を流すべきではないだろうか。人類はこの音楽に包まれながら終末を迎えるべきであり、絶望やカルト宗教に逃避してはならないのだ。 映画は前半と後半にわかれた二部構成。 前半は、結婚式当日に奇矯な行動をとる美人の妹と分別のあるさほど美人ではない姉の対比が描かれる。描かれる、というのは全体を観た後でそう感じるのであって、その場で観ているときは、ひたすら躁鬱病か統合失調症としか思えない妹の奇矯な行動に登場人物同様、観ているこちらも翻弄される。 メランコリアという大惑星の衝突によって地球が滅亡する後半では、この姉と妹の関係が逆転する。狼狽し右往左往する姉とは対称的に、躁鬱病の妹は冷静さを保つ。絶望を知らない者(姉)は危機に際して精神の安定を保つことができない。一方、絶望を知る者(妹)はそのときを最も美しいやり方で迎える。 このラストほど力強く美しい、逆説的な人間精神への讃歌は、あらゆる芸術を俯瞰しても皆無である。トリアー監督は、正常な人間は実はみな狂人であることをこの映画で証明してみせた。トリアー監督自身、鬱病からの回復者だそうだが、狂気を知る者だけが人間の魂を救済することができる、あるいは狂気こそが魂の救済なのだという深遠なテーマをこのラストで文字通り爆発的に表現している。感動的、などという言葉が空々しくも軽々しく感じられるラストだった。 地球滅亡という「絶望の極北」を描いたあとトリアー監督はどこへ向かうのか。間違いなく映画の最前衛、最前線にいるデンマークのこの異能の人から目を離してはいけない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
July 24, 2012 11:27:44 AM
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