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松山 秋山兄弟 生誕地
江戸末期の天保年間からあった秋山家、昭和20年 空襲により焼失、現在は生家に近い形で復元されている。 当時はか質素なかやぶき屋根であった。 (現在かやぶき屋根に復元すると莫大なお金がかかる) 下級武士であった秋山家だが立地はお城に近い場所 にありこれは有事の際にまっさきに城に駈けつける 役割(役職)であった為。 貧しい下級武士の生まれであった為、お金のかからない 陸軍・海軍の兵学校に進学し2人とも大将、中将まで 出世し今日まで語り継がれる活躍をすることになる。 ![]() 秋山好古(1859年~1930年)兄 ![]() 秋山 真之(1868年~1918年)弟 ![]() 秋山好古は、日露戦争で日本の騎兵隊に世界で初めて 機関砲を常備して世界最強といわれたロシアのコザック 騎兵隊を撃退した。陸軍大将まで栄進したが退役後 井上要達から松山の北予中学校の校長に就任を要請 されると、すぐに承諾した。 ![]() 時代年表 ![]() 真之は身長158cmの小柄であった ![]() ![]() 陸軍大将であった秋山好古の中学校校長就任 のニュースは全国を驚かせた、そんため入学希望者 が増え、急速に発展していった。 ![]() 秋山校長は1日も休まず、時間厳守 その登校する姿は沿道の市民から畏敬 のまなざしでみられていた。 ![]() ![]() 折々に全校生徒を集め訓示をしたが 生徒は大いに感銘を受けたという ![]() 晩年の6年間、無欠勤で後進の育成に尽くした ![]() 記念碑 昭和12年財界人有志によってつくられた ![]() 秋山 真之は知力・体力に優れ海軍兵学校を 主席で卒業する、日露戦争で連合艦隊選任参謀 となりすべての作戦を立案、日本海海戦ではロシア バルチック艦隊を撃滅して日本の危機を救った。 海軍大学の教官として近代化に貢献。正岡子規とは 松山中学校以来の無二の親友だった。 ![]() 虫垂炎のため50歳で亡くなる、治療を受けていれば もっと生きていた真之。なぜ治療を拒否したかは不明 ![]() 「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」 バルチック艦隊発見時の電報の末尾に真之が 加筆した有名な電文 ![]() トルコの軍艦エルトゥールル号が1890年和歌山沖で 遭難500人以上の犠牲者をだした。生還した69名を 遭難事故の20日後、日本海軍のコルベット艦である「比叡」 「金剛」がトルコに送り届けた、この時に真之は少尉候補生 として乗艦している。 ![]() トルコまでの航路 ![]() 真之が子規にトルコから送った手紙 「謹賀新年 コンスタンチノーブルまで来たが 特に驚く程のものはない、世界は広くしてよほど 狭くござ候」 ![]() 真之はアメリカ留学や欧米出張で冷静に国力 を分析していた、空軍と潜水艦隊の強化を説き 中国革命の孫文を支援。また、アメリカと戦う ことの非を唱えた。 ![]() 秋山家の井戸 ![]() 好古が好きだった無花果 ![]() 貧しくとも志は高い 松山の偉大な先人 案内係の方が親切にいろいろと教えていただき パンフレットや本に書にかかれていない裏話が聞けました。 余談 トルコ人は「エルトゥールル号遭難」の事を忘れてなかった。 1985年のイラン・イラク戦争でイラクのサダム・フセイン 大統領はイラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言 を行った。各国は期限までにイランの空港から軍用機や専用機で 救出したものの、日本政府は自衛隊の海外派遣は不可の原則の為 救出ができなかった、当時国際線を運航していた日本航空も 「イランとイラクによる航行安全宣言の保証がない限り出せない」 とし在イラン邦人はイランから脱出できない状況に陥った。 野村豊イラン駐在特命全権大使がトルコのビルレル駐在特命大使 に窮状を訴えたところ「わかりました、ただちに本国に伝え、救援機 を派遣させましょう、トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難 の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」 と答えたビルレル全権大使の要請を受けたトルコ航空は自国民救出の為に 旅客機を2機に増やし215名の日本人はこれに分乗しトルコのアタテュルク 国際空港経由で無事に日本に帰国できた。 100年前の出来事をトルコ国民は忘れていなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.09 06:16:35
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