キツネとたぬき
きつねそばとたぬきそばこれは、蕎麦屋メニューの中でも、お手軽に食べられるネタものの双璧といえませんか?天ぷらそばや鴨南蛮となると、それなりに本格的なものになると、結構お代も張りますよね。いつぞやこの「たぬきそば」について、「いなりそば」が前々からあって、名前がお稲荷さんから「きつね」というなら、蕎麦屋に「たぬき」がいたっていいだろうののりで、メニュー化されたのじゃないかと言っておりましたね。落語家の林家木久蔵さんがお書きになった『昭和下町人情ばなし』(日本放送出版協会)に、これに関するおもしろいことがでておりました。木久蔵さんのお師匠さん・先代の林家正蔵さん(今の正蔵さんは、林家三平さんのご長男のこぶ平さんがお継ぎになられましたね)が、天ぷらの揚げカスの噺だけで20分くらいしゃべったという思い出話。「たぬきそばってものがありますが、蕎麦の上にのってる天カスも、いいネタを揚げた油カスだったら、なんとも言えなく旨いですが・・・。ついでに申し上げますが、たぬきそばのたぬきは、キツネ・たぬきのたぬきじゃなくて、衣ばかりのカスだから"たね・ぬき"っていう意味で、これを縮めた江戸弁でして・・・」ほ~、中身の入っていない衣だけの「たねぬき」が元で、それが変じて「たぬき」になったと。『蕎麦屋のしきたり』(藤村和夫著 日本放送出版協会)には、昭和25年ごろのこと、「室町の砂場」さんで、「仕舞い蕎麦(看板にしてから、従業員が皆で食べるそばのこと)の時に、もり汁の中に「揚げかす」を入れており、これはこれでおいしいのですが、まさかお客様に「天かす」を差し上げるわけにはいかない。(まだその頃には、「ばくだん」とか「たぬき」はあちこちで売り出されていませんでした。そこで「砂場」さんでは、天ぷらをかき揚げにして、天もりと称してお出ししたと・・・・云々。このように書かれておりました。そうすると、たぬきは昭和になってから、現れたのでしょうか?大正、明治もさることながら、天ぷらが食べられるようになったのは、そばと同じ江戸時代の初めころですからね。家康の死因は、鷹狩の合い間に当時上方で流行だした天ぷら、しかも鯛の天ぷらを食べ過ぎたのが、原因と言われておりますね。もっとも、家康は消化器系のがんを患って、その頃にはもう末期であったから、天ぷらが直接の原因ではないという書物もありますね。さて、何事も無駄にせず、万事リサイクルを徹底していた江戸人は、天ぷらを揚げるときにでる天かすは捨てていたのでしょうか?私の想像するに、あくまで蕎麦屋は蕎麦屋、天ぷら屋は天ぷら屋で、横のつながりはなかったと思われます。それもどちらも屋台を担いでの出店が主流で、店を構えての蕎麦屋は、江戸時代の終わりころになって、ようやく出現したといいますから、たぬきも出ようがなかったのかも知れませんね。酒そば本舗ただ今セール中です!!さ・ら・に!【送料無料お試しセール】好評開催中です!!モバイルはこちらから!携帯電話からもご購入いただけます!!