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カテゴリ:教育論・教育問題
「教育失敗学から教育創造学へ」でブログ主のkurazohさんは次のように述べておられます。
1、ピンチをチャンスに >「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」から教師は脱皮して、「打たれ強い」「逆境に強い」「逆風を追い風に変える」教師に生まれ変わるのは難しいことでしょうか。 2、教師はなぜ批判に弱いのか その1 のコメント欄 >そのような関係(どうしてわかってくれないのかといった)が、昔の文科省と日教組、(・・・)、一部の教師と「モンスター」扱いされる保護者との間に見られるので、いつまでたっても教育の議論が「子ども不在」になってしまうのですね。子どものけんかと同じようなレベルでしょう。 上記の記事、およびコメントは全く違ったタイミングで書かれたものですが、両者の「つながり」にもこだわりながら「教育における批判と連携」について述べたいと思います。 確かに批判を正面から受け止め自己成長の機会にしていくような強さを持つことは大切でしょう。それは教職員に限らず保護者さらには全ての人間にとってそうだと思います。 しかしながら、「こうあるべきだという正論」だけで人間は成長するかと言えば、そう簡単ではありません。 例えば(上記のように)、一部の教師と「モンスター」扱いされる保護者との間に見られる関係を「子どものけんかと同レベル」と断じるだけでは、あるべき連携の展望は見えてこないでしょう。 保護者に関して言えば、確かに「幼少期から子どもに最も長い期間接するのは保護者であり、子どもがどう育つかについては最大の責任を負っている→保護者は子どもの問題点について何らかの指摘や批判を受けた時はそれをきちんと受け止めて、子育てのあり方を問い直していく必要がある」というのも一つの正論でしょう。 しかしながら、子ども自身に問題が見える時、少し家庭の状況を質問しただけで保護者が過敏に反応し、逆に「学校の指導のあり方」について通常では考えにくいほど激しく追求してくる場合はしばしばあります。 このような保護者は以前から「クレーマー」と呼ばれ「困った親」と見なされていました。しかしここでも「困った親というのは困っている親だ」という小野田正利(阪大大学院教授)の発言は妥当だと思うのです。 私自身の実感でもあるのですが、「子どもの問題点」を指摘した時にクレームをつける保護者というのは「もしかしたら自分の育て方がが悪かったかもしれない。しかし、そう思いたくない。」という二つの思いが葛藤している場合が多いと思います。 水谷修氏も指摘していますが、保護者が心の余裕を持ちにくくなっている状況の中、保護者を責めて追い込まないようにする、ということは大切なことだと思うのです。むしろ、そこでは子どものプラス面を伝えたり、気づいてほしいときには「親としての失敗談を(エピソードとして)教員が語る」といった対応が適切でしょう。 kurazohさんは「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」という言葉を使っておられます。確かに「褒められなければ批判と正対できない」ということは問題でしょう。しかし、「褒められたい」ということ自体はある意味で人間の真実だと思うのです。実際、 「批判を受け入れて自己変革すること」は簡単にできません。これは教職員だろうと保護者だろうと同じことでしょう。 根本的に「人間(自己意識)は人から認められること(承認)を求める存在」であり、それが満たされない状態に置かれると、深く傷つく存在です。 私は以前、 「学校の力を高める」2で「U高校の実践」と「船井幸雄氏の経営者指導」を例に「褒めること」、「承認すること」を軸にした「学校づくり」、「企業指導」について紹介しました。 上記の実践は、教職員と保護者とが好ましい連携をとりながら、ともによりよい教育を創造していく上でも、大切な点を示唆しているように思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ ランキング(日本ブログ村)はこちらです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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