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『正義感は生まれつき?弱者を助ける『正義の心』はいつ生まれるのか』
Grapeさんの記事です。 京都大などの研究グループが、 正義感は生まれつきなのか、学習によってはぐくまれるものなのかを研究する中で、 生後半年の乳児の時点でもうすでに、 弱者を助ける「正義の味方」を選ぶ性質があることを明らかにした。 実験では、生後6ヶ月と10ヶ月の乳幼児130人余に、 攻撃者、犠牲者、正義の味方、傍観者の4種類のキャラクターが登場して、 攻撃者が犠牲者に体当りすると、正義の味方が出てきてそれを阻止するパターンと、 何もしないで傍観するパターンをアニメーションで4回づつ計8回見させたあと、 正義の味方の人形と傍観者の人形を見せてどちらを選ぶか調べました。 すると、何度やっても、 攻撃するのを阻止しようとする正義の味方の人形を選ぶ乳幼児が 20人中17人を占めたそう。 キャラクターの色などを変えてやってみても、結果は変わらないことから、 「人間は生まれたときから正義感の原形を備えている可能性がある」と結論づけた。とか。 なにより、この記事の 「でも、弱いものを助けようとする精神というのは 動物本来の生きていく上で必要なものなのではないでしょうか」と結んでいるのが たまらなく…好き。 この 記事を見てあたしが感じたのも、そうだったから。 まあ、あたしの感想は 弱いものを助ける、なんて「お上品さ」でも何でもなく。 ずばり いつか自分が標的に、獲物にされたとき どうすりゃ生き延びられるのでしょうか?を、その救済システムを あらかじめ 社会の大前提として組み込んでおこうとする、みにくいエゴ?その自分勝手さ? そもそも 生存本能、つーか、種の保存? それを超える「正義」って、なに? だから お題目を見た時点で どんな 内容だろうと、この実験は。 生物生来の生存本能のうち 耳障りのいいものを、ひとつふたつ選んで。 それを ひたすら「正義」と奉(たてまつ)って。 けっか当然に 種の保存に従って赤ちゃんが、それを選んじゃうと… ああ やっぱ、あたしたち人類って 「正義」の存在だったんだなぁ、と結論付けちゃう、ただのレトリックみたいな? そう感じちゃう、あたしの性格って めっちゃ歪んでんだろうな、とは判ってんですよ。 判ってんですけれど ほら この記者さんも、どこか歪んで…いや、あたしと似た者同士? だから なんだか嬉しくなっちゃいました。同病相哀れむ、ってヤツですか。 ただ それだけのお話です。 もうひとつ。 IRORIOさんの記事です。 『生徒ひとり一人に合わせた「オリジナル握手」で関係を築く先生』 生徒ひとり一人を、 独特なジェスチャー付きの「握手」で教室に迎える先生がネットで話題になり、 ABCニュースをはじめとした米国のメジャーメディアも取り上げている。 小学5年生に国語を教えている彼が、生徒たちと交わす「握手」は 腕の振りやハイタッチ、拍手、肩のぶつけ合いなどを組み合わせた複雑なジェスチャー付き。 そのパターンは生徒ひとり一人で違っていて、 彼は生徒ごとの「握手」パターンを憶えているという。 「(教育で)絶対に大事なのは、生徒との繋がりだ」と彼は言う。 「言葉には表せないような信頼感を、生徒との間に築くこと。 これは、多くの場合、軽く見られたり見過ごされたりしているように思う」 「相手が こっちを信じる気にならなきゃ、何を教えても無駄だからね」なんだとか。 う~ん。 あたしが小学生だった時分に、こういう先生がいたら… きっと楽しかったでしょうね。 で。 たぶん、あたしは 登校を拒否ちゃっていたかも知れません。 だって 面倒くさいじゃないですか。 たった、ひと言 先生、おはようございます。で済むお話なのに。 毎回、毎回 ハイタッチ?拍手?肩のぶつけ合い? どうして そういうくそ面倒なジェスチャーまでしなくちゃけない、わけ? しかも、いくら芸をしたって お金も何も、もらえないんだよ。 ほんと、勘弁しておくれ、ってお話ですよ。 あたしが小学生高学年のころ 放課後 近くの浜辺にクラスみんなで集まって なんたらかんたらをやりましょうよ、って生徒の自主企画?ってのありまして。 なんたらかんたらと、書くしかないのは あたしは参加しなかったから。 だって、イヤじゃん。 あたしには いい子ぶって、クラスでニコニコ笑っているだけで充分だ。 何が悲しくって放課後まで そんな責め苦を味わわんといかんの? やりたいヤツだけで、やれりゃいいじゃん。 やりたいヤツだけで、集まりゃいいじゃん。 なのに どうしてクラス全員まで広げようとする? まして なんで、あたしまで…。 だから、この記事の先生。 ジェスチャー付き挨拶を やりたい生徒さんとだけ、やっているなら あたしは、なんの文句もありませんよ。 けど 学校でクラス全員と、でしょう? そこが あたしは絶対にイヤだ。気色悪くって仕方がない。 小学生なんて みんな仲間はずれが怖い。 クラスみんなでやりましょうよ、ってなら なんだってやりますよ。 こんど クラスみんなで浜辺に集まって遊びましょうよ、なら どんなに行きなくなくても 行かなくちゃ仕方ないんですよ。 まあ。 そのクラスの放課後イベントだって、2回目はなかったような。 たいしてヒトが集まらなかったのか?遊びがくそつまんなかったのか? 理由なんか知りませんけれど。 クラスの人気者さんって、さ。 しょせん その程度のものでしょう? みんな なかば強制的に?学校にいなきゃいけないからこその人気者。 けれど だれもかれも自由になったなら。 そりゃ 自分のやりたいことをやりますよ。 世の自称・知識人さん…いや、人気者さんや人気者クンの意見なんか ダレも聞きゃしませんよ。 米国さんは知りませんけど。 日本の学校みたいな どこか一般社会とは隔絶された、閉鎖的な空間では 生徒個人個人のやりたい、やりたくない、なんて言える空気じゃない? いちぶ 生徒の発案が、まるでクラス全体の声みたいになって みんな、そうだ、そうだと反対しなくって。 みんな笑顔で 有象無象(うどうむぞう)に、ムリヤリやらされることが少なくない。 あの、さ。 米国さんって いつからマス・ゲーム好きの北朝鮮や中国みたいになっちゃった? 米国さんの根本理念 誰も、ダレかの価値観に拘束・束縛されない?されちゃいけない? みたいな 建国以来の自由主義は、どこに行っちゃったのさ? 何と言いますか。 ひとつ目の「正義の味方」実験にしても、ふたつ目のジェスチャー付き挨拶にしても いいですよ。 やりたきゃ、ご自由にされればいいでしょう? で。そんなのに いいね、いいね、と、おサルさん…いや、無思慮に 賛同・称賛していりゃいいじゃないですか? 誰が何をしようと、何を絶賛しようと、ヒトそれぞれ。 あたしの知ったこっちゃありませんよ。 ただ 何が、いいことで、何が、しなくちゃいけないことで 何が、あたしたちの、こうある「べき」ことなのか? それって 誰が決めていいんだろう? いぜん、このブログでは。 米国大統領選挙が 国民の直接選挙でなく、選挙人制度の間接選挙であることをもって。 民主主義の限界「衆愚の暴走」を あたしたちの知見が理性が、瀬戸際でくい止め得るシステムと書いた。 ほかを見ても EU離脱の可否とか、大統領の弾劾とか 国政の最終判断を、司法に求める国が少なくない。 古美門研介弁護士さんじゃないのですが。 最高裁判事さんの判断は これまで人類英知の結晶、あたしたちの良心に他ならない? それは とうぜんポピュリズムに、いや ときに、ほかの三権より優先しちゃって仕方ないのかも知れません。 けれども 地裁さんの判断って、どうなんですか? 国政選挙の洗礼を受けていない。 最高裁判事さんじゃなきゃ国民審査も、行政府さんの承認も受けていない。 つまりは あたしたちは誰も、そのヒトを信任しているワケじゃないんですよ。 ただロースクールに入学して 司法試験に合格して、司法研修生期間を経て ただただ、裁判官として任用されただけ。 そういうレベルのヒトが ときに、自国・他国の存続を決め、大統領権限を大きく超えちゃおうとする。 それって 許されることなんでしょうか? たとえ 対馬で盗まれた仏像だとしても日本になんか返さなくていいですよ。 なんて、隣国の地裁は さすがにアタマおかしいでしょう?と思わなくもありませんが。 プエルトリコさんのデフォルト危機って 米国地裁が原因だよね? すっげぇ 財政の悪化したプエルトリコ当局さんが、世界中の債権者さんにアタマを下げて。 国債価格が、紙くずみたいになって、ごめんなさい。 それでも どうにかお願いします、と泣いて頼んで? さらに債権の大部分を放棄してもらった。 けっか、どうにかこうにか国債償還の目途が立って 国家の破たんは免れるかも?ってとこまで行きました。 なのに。 その紙くず同然のプエルトリコ国債を 二束三文で買い漁ったのが米国のハゲタカ・ファンド。 すると国際的合意なんて、なんのその。 額面通り償還してくださいな。債権放棄なんて、うちは認めませんよ。 そんなで グッチャグチャになった。 あげく 激怒したプエルトリコ政府さんが、強引に国債の償還をしようとしたら… 米国地裁は そんな国債償還なんか認めませんよ、ってさぁ。 あたしが貸したワケじゃないので 借りたお金を返せない、が、いいか悪いか、なんて知りません。 そもそも、いつだって アメリカン・ファーストで。 なんでもかんでも自国優位の判断しかしない米国さんの傲慢さ が、いいか悪いか、なんて知りませんよ。 ただ。 たとえ米国さんとは言え 地裁判事「ごとき」が、プエルトリコって国家の存続を決めちゃっていいの? それによって 起きるかもしれない国際的な金融不安に 地裁判事「ごとき」が、きっちりかっちり責任を取れるのかい? 日本も、そうだけど。 地裁判事さんレベルには くっだらない理念の狂信者さんもいらっしゃいますので。 自国は、ともかく せめて他国に悪影響する判断は、最高裁まで待っちゃダメなのかしら? いくら三審制とは言え そんなの下級裁判所に任せちゃダメでしょう? そして。 たとえ、いままで培(つちか)ってきた あたしたちの理念・知見の集大成、人類英知の結晶だとして。 立場が変われば 時代ごとの「正義」なんて、いくらも変わっちゃう? ときと場合によっては 攻撃者から弱者を守ろうとする「正義の味方」よりも 傍観者を選んじゃって何の不思議もないでしょう? 放課後、クラス全員で遊びましょうよ、に あっ、ごめん。あたし用事があるから。 そう断って、どこがどう悪い? だから あたしたち良心の結晶たる最高裁さんだって きつく「正義」と「正義」がぶつかり合う場面では あえて どちらに勝敗もつけなくていい? 高度に 政治的な問題ゆえ司法判断には馴染(なじ)まない。それでいいじゃない? あとは 議院内閣さんでも、大統領さんでも ときの国民の審判を受けたヒトが責任をもって、やりますよ。 最高裁判事さんでも、それぞれの知見・良識・理性によって 最終的に 三権のどこが責任をもって判断すればいいお話なのか? それを 現行憲法に副(そ)って、判断する「だけ」でいい。 アリさんがゾウさんの頭に登って、いくらイキがったって 当たり前にゾウさんの方が偉大でしょう? なんでもかんでも 司法が、かってに口を出そうとするんじゃないよ。 と言うか。 そうしたいなら、最高裁判事さんの国民審査んとき ちゃんと、そう書いときなさいよ。 外交でも、国防でも、三権に関係なく何でも。 あなたたち国民の生殺与奪は 最終的に 私たち最高裁判事同士で、てきとうに決めちゃいますから。あしからず。って。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年02月06日 21時42分10秒
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