信長栄華の跡・安土城址(4) 再現、世界に魅せる信長の館
安土城天主閣は、まさに天主としての信長の館。そして、その名の通りの博物館が、安土城址から自転車で5分ほどのところにある。この日、佐和山城址、彦根城、安土城址と歩き、最後の締めくくりとして、"信長の館"を訪れたのである。27年前、確かそれがある地は、"近江風土記の丘"と呼ばれ、博物館が1棟だけ建っていたと記憶している。背後に観音寺城址のある繖山(きぬがさ山)が迫るその地は、今では、博物館に公園、そしてホールやスポーツ施設が建ち、"文芸の郷"と呼ばれている。"信長の館"を訪れた理由、それはそこに5層7階(地下1階)の安土城天主閣、その5,6階の部分を原寸大で再現したものがあるからである。それは、スペインのセビリア万国博覧会に出展するために、日本のメイン展示として復元されたものであり、以前、テレビでも見た記憶があるのだが、それも1992年のことという。年月が経つのは、実に早いものである。さて、その安土城天主閣であるが、5,6階部と言えば最上層。それは、戦国時代の実戦向きの城としてのものではなく、まさに権力の象徴としての建造物といっていい。城に似つかわしく、金色と赤の原色が、目に突き刺さる(右写真)。それは、当時、信長がポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスを通して世界に、その豪華絢爛さをアピールしたものだ。そして、それから約400年たった1992年、晴れて世界の舞台にお披露目したわけである。それは、400年越しに、信長の念願も叶った、と言えるのではなかろうか。天主の外側に設けられた階段を登り、6階部の内部を見る(下左写真)。金箔の壁面に描かれた障壁画、そして漆に反射する光、そのきらびやかさには目を見張るばかりである。 そして、5階部は、外壁の真っ赤な漆、そして床や柱も赤く輝く。その奥にある金箔の壁に描かれた壁画の数々(上右写真)。そういうものが現実にあったとは、とても信じがたい限りだが、それは事実なのであろう。暫し、椅子に座り、その威容が、安土山頂に聳え立つ姿を、想像してみたりもする。27年前に安土町を歩いた時、安土山に安土城を再建しようという運動があることを知った。今回は、そういうものは目に入らなかったのであるが、そんな夢もまだあるのであろうか。半世紀、いや100年後に、もしかしたら安土山に安土城が聳えているということもあるかもしれない。安土駅への帰路、安土城下に建設された神学校、セミナリヨの跡に立ち寄る。そこも27年前に訪れたところである(下中写真)。そこから眺める、安土山(下左写真)には総見寺三重塔の上部先端部も見えるが、その山頂に天主閣が聳える姿は想像するだけで壮観である。 セミナリヨ跡の周囲は住宅地となっていて、最初、そこを見つけるのに時間がかかったのだが、27年前は現在ほど家は建っていなかったのではなかろうか。そんな気がした。公園となっているその片隅には、セミナリヨの第1回卒業生で、秀吉のキリシタン弾圧により、長崎で26聖人として殉教した、三木パウロを祈念した石碑が建っていた。石碑には、1981年5月に建立されたと記されており、つまり27年前にも目にしたことになる。そこに三木パウロの遺骨が迎えられたとの記述があり、その下に埋められているのであろうか。細川ガラシャもその死を悲しんだという三木パウロ、その最期の地をその数日後に訪れることになるのだが、それはまた追って記したい。この日、1日で3つの城郭を訪れた私だが、そんな体験も28年前、母を伴って、岡崎城、大垣城、岐阜城を訪れた時以来である(岐阜城は私だけ登城)。この日の城巡りは、佐和山城址と安土城址と、二つの山城もあり、なかなかタフではあったが、それも一人だったからこそ、成し得た業。彦根に一泊し、好きなことをさせてくれた、家内に感謝である。(おわり)