大阪城(2) 極楽橋から山里丸、そこに秘められた歴史に触れる。
5年ぶりの大阪城、極楽橋から臨む天守閣の景色は、素晴らしい(右)。この橋は、本丸北側からのアプローチとなるが、それが大阪城に秘められた歴史の変遷に想いを馳せるキッカケになろうとは、思いもよらなかったことである。今ある大阪城が、秀吉の時代の城郭でないことは、良く知られているところである。秀吉亡き後、秀頼の時代に、外堀、内堀が埋められ、やがて大阪夏の陣で落城するのであるが、その後、徳川の時代となって、整備されたものだ。発掘調査で秀吉時代の大坂城の石垣が出てきたといった話や写真は、随分と昔に見聞きしたものであるが、大坂城が築城される以前、その地にあったのが、石山本願寺だ。信長の天下統一の道筋において、大きな障害となり続けたのが、宗教勢力。僧兵を抱えるなど、強力な武装集団でもあったわけだが、その倒滅のために比叡山焼討ちがあり(関連ブログ)、また長島一向宗の鎮圧などもある。が、最後の大きな砦として立ちはだかっていたのが、石山本願寺。顕如に率いられ、また雑賀孫市(さいがまごいち)率いる鉄砲集団、雑賀衆も後ろ盾となって、信長を幾度も退けたのは、司馬遼太郎著「尻くらえ孫市」にも描かれているところである。そして、この日、本丸への入口となった極楽橋、その名前こそが、石山本願寺の名残であることを知ると、つい感慨に浸ってしまう。もっとも目の前のその橋は、昭和になって架けられたものというが、その昔には、石山本願寺の阿弥陀堂に向かう時に渡る橋だったようであり、それ故に極楽橋ということのようである。つい見落としてしまいそうなところに歴史を感じる、それがまた面白さである。しかし、発見はまだ続く。極楽橋を渡ったところの石垣は、枡形となっていて、そこに立派な門があったことが、容易に想像されるのだが、その名は山里門。そして、門をくぐったところ、本丸の北側に当たるところが、山里丸(山里曲輪)だったのである。今でこそ、そこは刻印石広場という名がついていて、築城の際、天下普請にかり出された大名の家紋やらが刻まれた石などが、置かれた広場になっているが、そこは秀頼、淀殿が自刃した、最期の地とされている。(左下:山里門からの天守閣、中,右下:山里丸からの天守閣) この日、山里丸に足を踏み入れることは、予期していなかったのであるが、実は、訪れる前より、一番関心のある場所が、まさにそこだったのである。別にそこに何があるというわけでもないのだが、それは茶の湯との関わりからである。山里と命名されている通りに、そこは城の中でありながらも、謂わば癒しの場。茶の湯で言うところの、「市中の山居(さんきょ)」にも通じるところである。その山里丸は、もとは石山本願寺の時代にも、庭園があったとかで、そこを黒田勘兵衛が整備して曲輪としたという。そして、秀吉の茶頭でもあった千利休がそこに茶室を造営して、茶会が催されていたようである。その時、利休に命じて作らせた棚、それに由来するものが、現在にあって、"山里棚"と呼ばれている棚である。そのことを調べて知るキッカケとなったのが、昨秋、半東を務めた、社中での茶会(関連ブログ)。当初、山里棚が使われる予定で、その由来を調べていて、結局、本番では"秋泉棚(しゅうせんだな)"という、紅葉と流水をかたどったものが使われたのだが、当時、それを調べることがあったからこそ、この日の出会いもあったに違いないのである。そんな感慨を感じながら、いよいよ本丸、天守閣へと歩を進めていく。(つづく)