竹やりでちょいと突き出す2分5厘 19日の日記
クロニクル 竹やりでちょいと突き出す2分5厘1876(明治9)年12月19日135年苗の話です。三重県飯野郡(伊勢)の一部で18日に始まっ地租改正に反対する農民一揆は、この日伊勢地方全体に広がり、各地で区戸長の家屋敷をはじめ、支庁、警察、学校、郵便局などを襲撃しました。学校が入っているのが、いかにも当時らしいのですが、貧農たちにとって、6歳~10歳(当時の義務教育は4年間です)の子供達が立派に労働力だったことを示すエピソードです。この伊勢暴動は、地租改正の規準米価算定をめぐる(高めに設定すれば、地租は高くなります)県当局と農民の対立が爆発したものでした。同じ事情は各地にあり、西日本では,岐阜,愛知、堺(大阪)に、東日本では茨城,栃木などに拡大、全国化の兆しさえ見せ始めました。ここに政府は、多発する士族叛乱と農民一揆に挟撃されることを怖れて、農民層への譲歩を決断(何よりも、徴兵制に基づく兵士の中核が貧農だからです)、77年1月に地租を地価の3%から2.5%に引き下げました。「竹槍でちょいと(どんと突き出すという言い方もあります)突き出す2分5厘」と当時話題になりました。この地価ですが、当時において地価は土地が生み出す収益(この場合は米に換算した収穫高)の過去3年間の平均を20倍した額でした。平均利子率を5%で計算したのですが、当時は日本でも地価の計算に収益還元法を用いていたことが、ここから分かります。この方法は1810年代のプロイセン農民解放や、1860年代のロシアの農奴解放など、農民に有償で農地を分与する際に採られた方法で、日本も同じ方式を採用したことが分かります。土地バブルに踊り、夢破れた後で、明治の先例に戻りまたぞろミニバブルに踊ろうというのも何とも学習能力に欠けています。開いた口が塞がらないのは私だけでしょうか。話しを戻します。こう見てくると、3%は年間収益の6割、2.5%でも5割となりますから、農民の負担は極めて高く、一揆が起きるのも当然だったという感じを受けます。