カテゴリ:日本史
明治政府の功績と日本資本主義の特徴(12)
日本各地に、地元提供による自前の小学校が建設され始めた1877(明治10)年は、最初の帝国大学として。東京帝国大学が創立された年でもあります。以後、高等教育と初等教育が、轡を並べて成長していくのが、近代日本のもう一つの姿でした。 といっても、義務教育がスンナリと社会に受け入れられ、就学率がすぐに飛躍的に高まったわけではありません。就学率が上がり、識字率が大きく向上するようになったのは、明治30年代の前半、1900年前後なのです。 その間、明治政府は、「広く民間から埋もれた才能を発掘するようように…」と号令を発し、村の神童探しを呼びかけたのです。その結果、村一番の秀才は、それが貧しい小作農の子であっても、地主さんや村長さんらが面倒を見る形で、高等小学校(5年、6年の2年間)から中学校へと進む道が用意されました。 各地の小学校から、集められた人材が篩にかけられ、中学校出も優秀な人材と認められると、帝国大学の予備門でもある高等学校への道が開かれます。ここでは村の名望家がツテを辿って、高等学校所在地の資産家の家の書生となる道が用意され、3年後に帝国大学へ入学すると、帝大所在地での書生となるのです。 こうして卒業後は、将来の日本を担う人材として、社会に巣立つのです。勿論、そこまで至らず、村一番の神童の輝きがいつしか色あせ、ただの凡才に終るケースの方が、数としてはずっと多いことは、明白です。しかし、教育を受けることでチャンスが広がり、貧しい家庭の子どもにも、ある意味で現在よりははるかに公平に、立身出世のチャンスが確保されたことも、また確かでした。 地方の名望家にとって、1人でも2人でも、帝大を卒業した将来ある人材を支援すれば、それは大変な名誉として、時には村や地域への利益誘導として、大きな果実を産むことに繋がるのです。 別の機会に何度も指摘してきましたが、明治の指導者達は、自分の立身出世を顧みて、地位や官職を世襲することは一切しませんでした。自分に代わる人材は、広く優秀な部下の中から、さらには世間から、これはと思う人材を引き抜いたのです。 こうして与えられたチャンスを生かしたシンデレラ・ボーイの出現が、教育制度がスタートして20年もすると、教育を受けることは出世のチャンスに繋がるという認識が広がり、立身出世主義の風潮を生み出し、強めることに繋がって行きました。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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