|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
ポンコツ山のタヌキの便り [全494件]
![]() みなさま、明けましておめでとうございます、やまももです。 フクロウさん、本当にお久しぶりです。NHKラジオで宮部みゆき原作の『孤宿の人』の放送があったようでね。NHKラジオ放送といえば、森繁久弥、加藤道子を連想しますが、いまは「新日曜名作座」と放送名も改まり、声優は西田敏行、竹下景子の二人でやっているようですね。『孤宿の人』(全8回)も2008年11月30日から2009年1月18日にかけて毎週日曜日の22:15-22:45に再放送されていますが、どんな感じをもたれましたか。実は私も1回だけ聴いたことがあるのですが、耳で聴いていると複数出てくる人物の関係がこんがらがって内容がなんだかよく分からなくなってしまい、眠たくなってしまいました。 NHKのTVドラマ「篤姫」は50話全部を通して視聴しましたが、フクロウさんもご覧になったのですね。とても楽しい時代劇ドラマに仕上がっていましたね。「作品も家族をテーマにして大きくても小さくても家族の持つ意味を表現されました」とコメントしておられますが、篤姫と今和泉家の暖かい家族関係のみならず、さらに徳川将軍家の大奥での結びつきまで天璋院に「みんな同じ家族じゃ」と言わせて、困難な情況に家族的結合で立ち向かむかわせていましたが、今のこの経済危機の時代にとてもマッチしているかもしれませんね。 最終更新日時 2009年1月1日 23時21分9秒
ファンさん、よしさん、バルダさん、こんばんは、やまももです。 ファンさん、「いつも拝見しておりますファンのひとりです」とのコメント及び暦変換ツール【換暦】についてのご注意に心から感謝いたします。 なお、【換暦】につきましては、私自身は昨年(2007年)の3月頃に福岡中央テレビの公式サイトのなかで見つけたもので、「篤姫の略年譜」作成にとても便利なツールとして活用し、ブラウザの「お気に入り」にこの【換暦】を登録してその後もずっと使わせてもらっていました。しかし、ファンさんからのご注意をいただき、久しぶりに福岡中央テレビの公式サイトにアクセスしてみましたら【換暦】へのリンクはなくなっていました。ファンさんがご指摘のように【換暦】はどうも福岡中央テレビとは関係がなく、「まえちゃんねつと」制作のツールのようですね。拙文中の誤りを訂正しておきたいと思います。 よしさん、お久しぶりです。NHKの「篤姫」ドラマもついに終了しましたね。「テレビの『篤姫』」を見ながら宮尾登美子の『天璋院篤姫』を読み,やまももさんのこのブログを読んで史実を確認するというのが楽しみでした。とても参考になりました。本当にありがとうございました」とのご丁寧なコメントをいただきとても感激しております。また、「『篤姫』は終わってしまいましたが,今後もブログの更新を楽しみにしています。/もちろん『篤姫』関連でなくても結構です」とのお言葉もいただき、ブログ更新に対する新たな意欲も湧いてきました。今後ともよろしくお願いいたします。 バルダさん、お久しぶりです。NHKの「篤姫」ドラマ、登場人物たちが丁寧に描かれており、とても面白かったですね。また、バルダさんからいろいろ貴重なご質問をいただき、お陰様で私なりに幕末の歴史について認識を深めることもできました。心から感謝いたします。来年もまたよろしくお願いいたします。 最終更新日時 2008年12月31日 20時14分1秒
昨夜(12月15日)でとうとうNHK大河ドラマ「篤姫」も最終回を迎えることとなり、その最終の第50回目のタイトルは「一本の道」でした。 昨夜の篤姫ドラマの視聴率は48回目(「無血開城」)の29.2%に次いで高い28.7%だったようです。 ↓ Audience Rating TV(〜テレビ視聴率〜) NHK大河ドラマ「篤姫」 http://artv.info/taiga.html#2008 なお10回区分で視聴率の推移を見ると、「1-10回平均」から「31-40回平均」は右肩上がりに漸増し、「41-50回平均」で少し下げています。 1-10回平均:22.39% 11-20回平均:23.1% 21-30回平均:24.93% 31-40回平均:26.11% 41-50回平均:25.72% 10/11〜11/23のときにすこし勢いが落ちたのが影響しているようですが、それでも非常に高い視聴率をコンスタントに取った番組と言えるでしょうね。 私は、これまでNHKの大河ドラマを熱心に視聴するということはなかったのですが、今回の篤姫ドラマでは主人公が鹿児島ゆかりの人物であり、またドラマの舞台としても鹿児島が取り上げられるということで、初めから全て観ることになりました。しかし、このドラマを1年間観続けることができたのは、決して鹿児島の住人としてお義理からではなく、やはり私にとってもとても楽しいドラマに仕上がっていたからだと思います。 主役の篤姫(天璋院)を演じた宮崎あおいの演技は素晴らしかったと思いますが、また彼女の夫役の家定を演じた堺雅人もとてもユニークでチャーミングな将軍像を創り出しており、この二人の絶妙のからみによってとても印象深いドラマが展開され、そのために4月から7月にかけて中だるみすることなく視聴率漸増に勢いをつけたようです。その他、篤姫の指南役の幾島(松坂慶子)や滝山(稲盛いずみ)、本寿院(高畑淳子)の大奥組もみんなそれぞれ個性があり、このドラマを大いに盛り上げました。 しかし、幕末の変革に大きな役割を果たした薩摩藩の小松帯刀、島津久光、西郷隆盛、大久保利通等の描き方には非常な不満を感じました。特に小松帯刀については、脚本家の田渕久美子氏は「薩摩藩の若き家老であり、西郷や大久保にも匹敵する働きから最初の宰相とまで呼ばれながら、歴史に埋没したヒーロー、小松にもスポットを当ててみたいとも思っています」と抱負を語っていましたが、彼がどのような秀でた能力を持っており、薩摩藩でどのような独自的役割を果たしていたのかドラマを見る限りよく分かりませんでした。ただ篤姫のことをひたすら思慕し、遠くからいろいろ案じているだけの頼りない人物としか見えません。これは、小松帯刀を演じた瑛太という俳優の問題ではなく、やはり脚本に問題があったような気がします。 最終更新日時 2008年12月16日 9時42分7秒
オッシー・パパさん、masaさん、こんばんは、やまももです。 オッシー・パパさん、初めまして。今年の1月、拙ブログに4回にわたって「調所広郷と贋金づくり」について紹介させてもらったことがあります。 ↓ 「調所広郷と贋金づくり」 「調所広郷と贋金づくり(その2)」 「調所広郷と贋金づくり(その3)」 「調所広郷と贋金づくり(その4)」 これらの拙文に対し、2日前にオッシー・パパさんから「偽金について詳細な記述に興味をそそられました。今年8月には南日本新聞に『薩摩と偽金』記事が5回連載されていたようです。/磯庭園の東方800mに花倉御仮屋跡は実在しています。探訪模様を公開しましたのでご覧下さい」とのコメントをいただき、また花倉御仮屋跡についての貴重な写真とそれについてのコメントが載っている「オッシー・パパのホームページ」 を紹介していただきました。 オッシー・パパさんのご指摘のように、「南日本新聞」に黎明館調査史料室長・徳永和喜氏が「薩摩と偽金」と題して2008年8月15日から9月12日の間に5回にわたって寄稿した記事が載っています。同記事によりますと、薩摩藩では島津斉彬が藩主のときに幕府に貨幣鋳造権の分与を求めていたそうですが、島津久光が実権を掌握した後、大久保利通、小松帯刀によって貨幣鋳造が本格的に始まったそうです。すなわち1862年12月22日に琉球通宝鋳造局が設置され、磯地区で鋳銭所が開業され、その後、場所を花倉に移して大量の偽金が鋳造されたようです。 なお偽金としては、琉球通宝造りを名目にしての偽天保通宝と銀に金メッキを施しての偽一分金、二分金が鋳造されたそうで、「鋳造は六五(慶応)年に始まり、六九(明治)年四月、明治政府の要人となった大久保が藩に贋造を禁止する建白書を出してやめさせたのだった」としています。 花倉で偽金が鋳造さたことについては、「明治政府が六九(明治二)年、贋金取締を厳重にし、贋金の総員数を取調べ申告することを藩に通達したことを受けて、藩は同十二月『華倉細工場を廃し、其の跡に生産方管轄の金性分析所を建設すべきを達』している。密造が花倉工場で行われていたことが分かる」としています。 オッシー・パパさんもご自身運営のHP「オッシー・パパのホームページ」で、「幕末の薩摩藩には『密貿易と偽金造り』により藩財政を支え、幕府に対峙する明治維新への推進力を得たのです」と書いておられますが、このような興味深くて重要な史実についてまだまだその全貌は明らかになっていないようですね。今後さらに詳しい研究がなされることを期待したいですね。 masaさん、こんばんは。篤姫ドラマ第49回目について、「今回よりも前回の方が見ごたえがあったと個人的感想です」とコメントしておられ、「最終回の一つ前の回として、少し、物足りなさを感じました。/これも最終回に繋げる演出でしょうか」とも書いておられますが、私も同感です。それから、篤姫ドラマの1回目から49回目までの視聴率の紹介に感謝します。年間平均の視聴率が24.33%というのですから、このドラマは大好評だったと言えますね。 ↓ http://artv.info/taiga.html また、下のような10回区分の視聴率の推移も興味深いものがあります。 1-10回平均:22.39% 11-20回平均:23.1% 21-30回平均:24.93% 31-40回平均:26.11% 41-49回平均:25.28% 最終更新日時 2008年12月14日 13時50分14秒
篤姫ドラマもいよいよ来週で最終回ですね。今夜(12月7日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第49回目のタイトルは「明治前夜の再会」でした。 今回のドラマでは、慶応4年4月10日(1868年5月2日)に天璋院が駕籠で大奥から一橋邸に移る間際になって、滝山(稲森いずみ)が天璋院に述べたつぎのような言葉がとても印象的でした。天璋院が、滝山に「私の代で城を明け渡すことになって無念でならぬ」と呟いたとき、滝山はつぎのように言います。「天璋院様ならばこそこたびのこと上手く運んだのだと思います。他の人ではこうはいかなかったのではないでしょうか。あなた様は選ばれしお方だったと存じます。自らの運命を知った大奥があなた様をここに呼び寄せたに相違ありません」。うーん、そうですね。ドラマでのこの滝山の言葉は、実際の史実を踏まえて考えてみても頷けるものがあり、薩摩藩から徳川将軍家の御台所として江戸城大奥に入輿した篤姫が、大奥最後の大御台所として薩摩軍に城を明け渡す役割を果たしたことには運命の不思議さを痛感せざるを得ません。 それから、一橋邸に移った天璋院の許に小松帯刀(瑛太)が訪れて囲碁をしながら若き日の二人の過去を回想したりする場面がありました。過去にもこのような場面が何度かあり、正直言って「またか」という感じもありましたが、小松帯刀から天璋院に家定(堺雅人)との生活について「お幸せだったのですか」と質問させ、彼女に夫の家定との暮らしが「この上もなく私は幸せでした。私を慈しみ愛してくれました」と言わせており、小松帯刀の気持ちにけりを付けさせるだけでなく、来週でいよいよ終わりを迎えるこのドラマとしても、やはりそれなりに必要だったようですね。 最終更新日時 2008年12月7日 22時24分11秒
今夜(11月30日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第48回目のタイトルは「無血開城」でしたが、今回のドラマのメインは慶喜(平岳大)の助命と徳川家存続を願う勝海舟(北大路欣也)と江戸城を攻撃して徳川を攻め滅ぼそうする西郷隆盛(小澤征悦)との会見の場面でした。 西郷との会見に先立ち、勝海舟は天璋院(宮崎あおい)と対面し、彼女から「西郷は有り余る情を持つ男である男である」から、そこに戦を避ける望みがあるかもしれぬと伝えられます。しかし、勝は「西郷は一時の情にほだされて決心を変えるような人物ではありません」と天璋院の西郷の情に対する期待を否定し、こちら側から江戸に火を放って焼け野原にして官軍の江戸城攻めを阻む策を立て、それをイギリスにも伝えることにより、薩摩が勝利しても何も得られぬことを悟らせる必要があると言います。そして、「おのれを追い詰めて初めて相手と互角になれるのです」との決心を語ります。しかし、勝はまた「西郷の心の奥の奥に届く何かがあればよいのですが……」とも言います。 それで天璋院は、幾島(松坂慶子)と相談し、西郷の心を和平へと動かす手だてについて思案しますが、彼女から「西郷殿の心を揺り動かす何かでございますか? それは薩摩のお殿様しかおられませぬ」との言葉にヒントを得て、西郷との会見のために薩摩藩邸に向かう勝海舟に亡き養父の島津斉彬(高橋英樹)の手紙を託すことにします。 西郷と対面した勝海舟は、江戸城明け渡しを約束する代わりに、慶喜は隠居して水戸家に謹慎し、徳川家は存続するという嘆願書を差し出します。しかし、西郷は勝海舟のイギリスに手をまわして江戸攻撃の手を緩めさせようとの策を見抜いており、あくまでも江戸城攻撃の意思を変えようとしません。そんな西郷に対し、勝海舟は最後に天璋院から預かった斉彬の書状を見せます。 篤姫に宛てた斉彬の手紙には、篤姫を自分の養女にして将軍家に嫁がせて彼女に心労を重ねさせたことを詫びるとともに、「そちと薩摩はいずれ敵味方になる日が来るやも知れぬ」と予言めいた言葉を残していました。またさらに「おのれの信じる道を行け」と書いてありました。斉彬の遺言となった手紙を読んだ西郷ははらはらと涙を流し、また生前の斉彬から「病人を生かす道を考えよ」と言われた言葉を思い出します。斉彬の手紙に心を動かされた西郷は、江戸城攻撃を取りやめることを勝海舟に約束するのでした。 天璋院は、勝海舟から西郷が江戸城攻撃を中止することを約束したと知らされ、大奥の人々を一同に集め、徳川家存続のため江戸城明け渡しに応じる意向を告げるとともに、大奥のみんなは徳川家の家族であり、大奥を出た後の世話も自分が責任を持つと約束するのでした。 今回のドラマには、家定(堺雅人)の位牌の前で「あなた様の思いに背いてしまったのでしょうか」と語りかける天璋院に、なんと家定(堺雅人)の亡霊が出てきて、「わしが残したいのは家でも城でもない。徳川の心なのじゃ。そちのいるところ、すなわち徳川の城なのじゃ」と語りかけるシーンもあり、視聴者の心を打つ場面が満載でした。 なお、史実としましては、勿論、勝海舟が西郷隆盛との会見に斉彬の手紙を見せたなどという事実はありません。また、萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』第7巻(朝日文庫、2008年1月)によりますと、西郷との会見の前に勝海舟がイギリスに働きかけて新政権に対する同国の影響力を利用した形跡は見られないとしています。 史実としましは、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで惨敗して江戸に逃げ帰った後、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、慶応4年1月23日(1868年2月16日)に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁(忠寛)を会計総裁に起用し、新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せています。そして旧幕府軍の代表となった勝海舟が新政府軍の本陣がある駿府に山岡鉄舟を派遣し、西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合わせた後、慶応4年3月13日(1868年4月5日)には自ら江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見を行い、江戸城無血開城を実現させています。 この江戸城無血開城が実現された原因としては、私は少なくともつぎの3点をあげる必要があると思っています。(1)勝海舟と西郷隆盛の個人的信頼関係があったこと。(2)英国公使パークスが討幕軍が江戸城を攻撃すると聞いて、「吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何」と批判し難色を示したこと。(3)そしてなによりも内乱の激化による外国勢力の干渉、侵略を恐れたこと。以上の3点です。 そのことについて、すでに拙ホームページ「江戸城無血開城と勝海舟」に載せました拙文「勝海舟と西郷隆盛の和平交渉」で詳しく紹介していますが、「(1)勝海舟と西郷隆盛の個人的信頼関係があったこと」を補強する説を新たに前掲の萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』第7巻の45頁〜48頁に見つけましたので、下に紹介したいと思います。 同書には、東征軍大総督府参謀となった西郷隆盛が駿府に到着早々に在京の吉井幸輔(友実)に宛てて書き送った文書が『西郷隆盛全集』第2巻から引用されています。 「賊軍には智将もこれあり、大久保も勝も参政(若年寄)に出候由に御座候間、決して油断は相成らず候。両人を相手に勝負を決め候儀、実に面白かるべきと是(これ)のみ相願い居り申し候。敵方に智勇の将を置き戦を成し候儀、合戦中の一楽、此の事に御座候。」 萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』は、この西郷の文書について、「そこには『好敵手』、つまり、本格的な交渉に堪えうる人物の登場を知った西郷のよろこび、いや、安堵感がおどり出ている」とし、「『歴史における個人の役割』という命題は、このような場合に生彩を放つのであろうが、これ以後、西郷の眼中にあるのは勝と大久保、勝と大久保の意中にあるのは西郷のみであったように思える。この人間狗な組み合わせがなければ、和戦と江戸開城をめぐる『高等政治』の展開もありえなかったであろう」としています。 さらに同書は、駿府に山岡鉄舟で勝海舟からの手紙を受け取った直後の西郷隆盛の心理についてつぎのような興味深い指摘をおこなっています。 「勝と大久保の登場を知ったときから、西郷は慶喜の助命と江戸攻撃の中止を、現実的な可能性として考慮しはじめたのではないだろうか。/慶喜の恭順と江戸の開城を保証しうる人物が徳川側の責任者であるとすれば、軍事的な観点からいっても、当然西郷は無用な流血の回避をのぞんだであろう。」 そして、八王子まですでに進出ていた東山道先鋒総督参謀・乾(板垣)退助らに西郷が慶応4年3月12日(江戸総攻撃3日前の1868年4月4日)に送ったつぎのような興味深い手紙(『西郷隆盛全集』第2巻所収)を紹介しています。 「陳(のぶ)れば大総督より江(戸)城へ打ち入りの期限、御布令相成り候に付き、定めて御承知相成り居り候事とは存じ奉り候得共、其の内軽挙の儀共これあり候ては、屹(きっ)と相済まざる事件これあり、静寛院宮様御儀に付き、田安へ御含みのケ条もこれあり、其の上、勝・大久保等の人々も、是非道を立て申すべきと、一向(ひたすら)尽力いたし居り候向きも相聞き申し候に付き、此のたびの御親征に、私闘の様相成り候ては相済まされず、玉石相混じわらざる様、御計らいも御座あるべくと存じ奉り候に付き、来る十五日(三月十五日、江戸総攻撃の予定期日)より内には、必ず御動き下され間敷(まじく)合掌奉り候。自然御承諾の儀と相考えられ居り候得共、遠方懸け隔て居り候て情実相通わず候故、余計の儀ながら、此の段御意を得奉り候。」 萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』は、この西郷の手紙を解説して、「江戸総攻撃を三日後にひかえた東征軍大総督府参謀の手紙にしては、静寛院宮の歎願(慶喜の助命と徳川家の存続)や田安亀之助の徳川宗家相続にふれ、さらに徳川倒の勝・大久保の『尽力』について語るなど、異常なほどに留保の多い手紙である。しかも、『私闘』であってはならないと念を押しているが、相手の慶喜が恭順を表明している以上、この段階で『私闘』でない戦闘はありえたであろうか。(中略)この西郷の手紙は、あきらかに慶喜の助命と江戸攻撃の中止に備える西郷のこころの動きを、微妙なことば遣いで語っているように筆者には読める。/もちろん、事実上東征軍全軍をひきいる立場にある西郷としては、江戸総攻撃の備えをいささかもゆるめるわけにはいかなかったであろうし、さらに和戦の最終的な決着は勝との会談の如何、そのさいの勝の出方次第と、西郷は覚悟を決めていたであろうが、会談の前日に書かれた手紙の中で、すでに勝と大久保の『尽力』が語られ、『私闘』の不可が説かれていたのは、西郷のこころが和戦のいずれに傾いていたかを物語るものではなかろうか。/交渉の相手が勝でなければ、こうはいかなかったであろうが、それが旧知の勝であるだけに、西郷は勝の出方をほぼ予測できたであろうし、さらに肝心なことは、勝のことばならば、西郷はそれに信をおくことができたであろう。勝が握っていた最強の切り札は『恭順』である。それを突き崩して、『私闘』に堕さない江戸攻撃をおこないうるものか」と書いています。 最終更新日時 2008年11月30日 23時25分30秒
2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」が東京(2月19日〜4月6日:江戸東京博物館)、大阪(大阪歴史博物館:4月19日〜6月1日)、鹿児島(9月6日〜10月17日:鹿児島県歴史資料センター黎明館)で開催され、各会場で同展示会の図録(NHKプロモーション、2008年2月)も販売されました。 その図録の178頁〜181頁に徳川記念財団の藤田英昭研究員が執筆した「知られざる戊辰戦争期の天璋院」が載っており、幾島が老年のために歩行困難となって大奥から宿下がりしていたこと、そんな彼女が天璋院の命を受けて西郷隆盛に天璋院の嘆願書を手渡したこと、しかしこの天璋院の嘆願書は西郷の「慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった」かもしれない等の興味深いことが書かれています。それで、同論文の一部を紹介したいと思います。 この藤田英昭論文によると、『静嶽公御年賦』(徳川宗家文書)所収の「天璋院様御履歴」に、慶応4年の「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」とあり、またこのつぼねを「薩州ヨリ御供致シ候人ニテ、老年二及ヒ歩行六ケ敷下宿致居候処、押テ出立」したものと記述していることから、「薩摩より天璋院に従い江戸に下向し、老年のため宿下がりをしていた人物といえば、幾島以外にはいない」と推定しています。そして、『興山公御年賦』(徳川宗家文書)の記述によると、この幾島と思われる女性には漢方医浅田宗伯(天璋院から絶大な信頼を受けて大奥の侍医となり、法眼に叙せられていた人物)が同行し、天璋院からは「御くるミ御ふとん」が遣わされたことから、「ただならぬ状態」にありながらも「無理を押して出掛け」て来たのであろうとしています。 なお、同論文によると、幾島が出立した慶応4年3月11日より以前に、慶喜の直命により山岡鉄太郎が駿府滞陣中の西郷隆盛のもとへ派遣され、慶応4年3月9日に西郷と会談し、「慶喜の備前藩御預け、江戸城明け渡しなど七か条の降伏条件が揃えば、家名存続は保証するという西郷の言質を取って」から翌日に帰府していたとし、「このような徳川家にとって有利な環境が整うなかで、天璋院の使者として幾島は出立したことを記憶しておきたい」と指摘しています。 そしてこの藤田英昭論文は、「では、天璋院の徳川家名存続を願う気持ちは薩摩藩隊長、なかでも西郷に届いたのであろうか」と天璋院の嘆願書の果たした役割に疑問を提起し、肥後藩の風聞探索書(『肥後藩国事史料』8巻所収の「一新録探索書」)のつぎのような記述を紹介しています。 「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しッヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致居たる処、此一言にて忽チ立腹、心頭より怒気発し、既ニサヽントしたりと、右女使附添之者自ら咄Lたりと云」 藤田英昭論文は、この肥後藩の風聞探索書の記述からつぎのような見解を示しています。 「歎願書に接した西郷は、天璋院の苦労を察して涙を禁じ得なかったという。天璋院の書状に西郷は心を動かされたのである。しかしあろうことか、天璋院の意とは別に、慶喜の所業に心労を重ねる天璋院を憐れみ、慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった。/確かに歎願書の前半には、『(慶喜は)私(天璋院)之心底に応し不申』『いか様成る不忠致候哉』など、慶喜に批判的な文言が綴られている。どうやら西郷は天璋院の本願である家名相続よりも、天璋院を苦しめる慶喜を排除しなければならない、と気持ちを高ぶらせていったようである。ある意味、情に厚い西郷の本領発揮とでもいうべきか。だが、これでは天璋院の本意を汲んではいない。女使(幾島)は、西郷の態度に立腹し、刺殺に及ぼうとしたともいう。/こうしてみると、天璋院の歎願書は、山岡との会談によって徳川家名存続へと傾きかけていた西郷の心を、別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性もはらんでいたことになろうか。もちろん、これは天璋院の真意ではなかったが、単に徳川家名相続に影響を与えた歎願書というだけではなく、多様な政治的意義も併せ持っていたということを考慮する必要があるだろう。」 最終更新日時 2008年11月27日 19時43分49秒
今夜(11月23日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第47回目は「大奥の使者」でした。 慶喜(平岳大)助命のために静寛院(堀北真希)と天璋院(宮崎あおい)は朝廷に宛てて嘆願書を書き、それをそれぞれ唐橋(高橋由美子)と土御門藤子(竹本聡子)に託します。天璋院の命を受けた唐橋は、近衛忠熙(春風亭小朝)を通じて嘆願書を朝廷に届けようとしますが、近衛忠熙の息子の近衛忠房は累が及ぶのを恐れて受け取ろうとしません。 しかし、唐橋はこの近衛家で幾島(松坂慶子)と会います。幾島は京で隠棲していたのですが、大奥からの使いが近衛家を訪れたと聞いてやって来たのでした。事情を知った幾島は小松帯刀(瑛太)の屋敷を訪れて薩摩の江戸攻め中止を頼みます。しかし、脚の痛みを堪えて鹿児島から京に来ていた小松帯刀も、江戸攻めの軍参謀となった西郷(小澤征悦)に会って江戸攻め反対の意思を伝えようとしていましたが、面会することさえ拒絶されていました。 幾島は小松帯刀に会いますが、西郷が江戸攻めの軍参謀となったこと、薩摩の家老である彼が面会を拒否されたことを知らされます。そして逆に幾島は、小松帯刀からつぎのような依頼を受けます。彼女が天璋院に会い、西郷を説き伏せるための手紙を書いてもらうように頼んでもらいたいというのです。 幾島は久しぶりに大奥で天璋院と再会し、小松帯刀から依頼された話を伝え、天璋院に西郷宛ての手紙を書いてもらいたいと要請するとともに、幾島自身がその書状を持って西郷説得に赴くことを願い出ます。 こうして天璋院は西郷に手紙を出すことになり、彼女は「慶喜の命を助け徳川家をお救いくださいますよう、御所へおとりなしくださいませんでしょうか。徳川家永続のためならば、私の命などどうなろうとかまいません。私は徳川の土となる覚悟です」といった主旨の嘆願書を西郷宛に書き、幾島を通じて西郷に渡すことになります。 この天璋院の手紙を西郷は涙を流して読みますが、自分の「徳川を倒さない限りこの国は変わらない」との思いは変わらぬと幾島に伝え、部下に3月15日に江戸城総攻撃を行うことを命じるのでした。 さて、今回のドラマはそれなりに面白かったですが、当然のことですが、いろいろ史実とは異なっていることがありました。 例えば、小松帯刀(瑛太)は西郷の江戸攻撃を止めようと懸命の努力をしていますが、勿論そんな史実はありません。では史実の小松帯刀はその頃、どんな動きをしていたのでしょうか。瀬野富吉『幻の宰相 小松帯刀伝』下巻(小松帯刀顕彰会、1985年7月)によりますと、小松帯刀は慶応3年10月26日(1867年11月21日)に西郷、大久保等と鹿児島に帰り、藩主父子に倒幕の密勅を示して率兵上洛を要請し、藩主忠義が3千の兵を率いて京に赴くことが決まりますが、小松身は同年11月に重患に罹って歩行も困難になり、鹿児島に残ることになります。しかし、慶応4年1月18日(1868年2月11日)になって、小松帯刀は久光の正月天機伺い(天皇への挨拶)の使者を兼ねて汽船で鹿児島を出発し、1月28日に朝廷に出仕しています。そして彼は徴士参与職に挙げられ、大政官総裁局顧問に任ぜら、さらに外国事務局判事を兼務させられます。そんな彼は、同年2月15日(1868年3月8日)に起こった土佐藩士によるフランス海軍の海兵刺殺事件(堺事件)、同年2月30日(1868年3月23日)に起こった英国公使行列斬込事件等の処理に奔走しています。 それから、天璋院が西郷に嘆願書を書いたのは史実ですが、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」で紹介しましたように、天璋院はその嘆願書で「当人(慶喜)はどのような天罰を受けてもそれは仕方のないことですが、徳川家そのものはとても大切な家柄であり、とにかく徳川家安堵のことを朝廷に頼んでもらいたいと思います。私は徳川家に嫁いだ以上、当家(徳川家)の土となるのは勿論のことでありますが、温恭院(徳川家定のこと)がすでに他界されているので、いまは亡き夫に替わって当家の安全をただ祈るばかりです。。しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も充分に取れず悲歎しています」と書いており、徳川家の存続は嘆願しながらも、慶喜助命のための嘆願などは行っていません。 それから、天璋院の西郷宛嘆願書を持参したのが幾島であることは最近明らかになり、そのことは今回のドラマにも活かされていましたが、鹿児島の地元紙「南日本新聞」2008年11月3日号に載った連載記事「御台所は薩摩人−篤姫さまお目見え」の「病身の幾島が“最後の奉公” 西郷へ手紙届ける」では、「当時六十一歳の幾島はその四年ほど前、病気で大奥を退いていた。だが、徳川家存亡の危機にあたり、“最後の奉公”にでたとみられている」としています。しかし、同記事は、この天璋院の「嘆願書は、(山岡鉄舟との会談で)徳川家存続へと傾きかけていた西郷の心を別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性をはらんでいた」との徳川記念財団の藤田英昭研究員の興味深い見解なども伝えています。それで、この「南日本新聞」2008年11月3日号の記事の一部も下に紹介しておきます。 「一八六八年三月十一日、嘆願状を携え江戸を出立した幾島は『歩行がむずかしい』状態だった(天璋院様御履歴)。/徳川記念財団の藤田英昭研究員によると、付き添いの女中七人や役人五人、漢方医も同行。天璋院からは『御くるミ御ふとん』が遣わされた。体を包む布団とみられ、病身の幾島はこれに横になったのかもしれない。西郷隆盛に面会した幾島は十三日、趣旨を伝えて同日江戸に戻った。/風聞書だが、二人が面会した様子を記した興味深い資料がある。西郷は嘆願に心を動かされ涙したが、天璋院に苦難を与える徳川慶喜に対し、怒りと討伐の意欲をかきたてられたという。徳川存続に穏便の処置を求めた嘆願の意をくまず、勘違いした西郷を目の当たりにした幾島は立腹し、刺し殺そうとしたらしい。/藤田研究員は『嘆願書は、(山岡鉄舟との会談で)徳川家存続へと傾きかけていた西郷の心を別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性をはらんでいた』と述べている。」 なお、この「南日本新聞」に紹介されました藤田英昭論文の見解は、東京、大阪、鹿児島で開催されました2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」で販売されました同展の図録(NHKプロモーション、2008年2月)掲載の「知られざる戊辰戦争期の天璋院」を要約したものですので、拙ブログに「天璋院の西郷宛嘆願書についての藤田英昭論文」と題して改めて詳しく紹介させてもらいます。 最終更新日時 2008年11月25日 20時40分43秒
よしさん、初めまして、やまももです。 私は原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』の203頁〜204頁を引用し、そこに書かれている小松、西郷、大久保の3人が薩摩藩のリーダとして相互に役割分担を担いながら「それが集団として大きなカになつて時代を動かすエネルギーになっていったのです」という指摘を紹介しました。 しかし、またこの原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』の186頁〜187頁には、つぎのようなことが書かれています。 「現に前に見たように、薩土盟約の約定書は、大政奉還、公儀政体の創出に向けた両藩の協力を謳っています。/この盟約締結に先駆けて、薩土が前項で述べたような討幕の密約を結んでいることは大いなる矛盾ですが、締約のほうは個々人の私的な会談という性格が強いので、やはり公式の薩土提携は薩土盟約です。/では、なぜ薩摩は、薩長同盟と路線の違う薩土盟約盟約を結んだのでしょうか。/それは、大久保、西郷らが無血革命は成功せず、事態は大政を奉還するだけの『倒幕』ではなく、武力で幕府勢力を壊滅する『倒幕』のほうに動くと踏んでいたからだと思われます。大政奉還が、武力をともなわない建白行動によって達成されるとは思ってもみなかったのです。/つまり、薩摩藩がこの盟約に期待したのは、来るべき武力討幕のときに備えるためでした。薩摩藩には、大政奉還建白の失敗がもたらすであろう局面打開ないし挙兵の機会と、土佐藩の武力援助等を期待して、いざというときに土佐藩の援助も得たいという思いがあったわけです。/そのための薩土盟約でしたが、西郷、大久保がはなから進言による大政奉還など実現Lないと踏んでいた一方、帯刀は、あくまでも最初は、その大目標を目指したと思われます。この点に、この三人の同志間にさえ微妙なずれが生ずるという、問題の難しさがうかがえます。」 しかし、この原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』は、「三人の同志間にさえ微妙なずれが生ずるという、問題の難しさがうかがえます」と推測していますが、小松と西郷、大久保との間で明確な意見の対立があったとする史料的根拠はどこにも示されていません。 それどころか、拙文「小松帯刀は西郷、大久保と意見が対立したのか? 」で紹介しましたように、慶喜が二条城で大政奉還慶の大会議を開き、小松帯刀がそれに賛同の意を表明する直前、薩長芸の3藩の会議が慶応3年10月8日(1867年11月3日)に開かれ、薩摩藩からは小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が会集し、武力による「政変」の決行を確認しただけでなく、同日の10月8日 小松、西郷、大久保3人の連名で、「国家の為に干戈(かんか;武器、戦い)以て其罪を討ち奸兇を掃攘し、王室恢復の大業相遂げたい」との願書を中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之宛てに出しているのですが、このようなことは原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』は触れていません。 ですから、小松と西郷、大久保の間に生まれ育ちや現在の身分・立場上の違い等から微妙な心理面での違いがあったのではないかと勝手に想像することは可能かも知れませんが、史料に基づいて実証的に「意見の隔たりがあった」と言い切ることは難しいように判断するのですが、いかが思われますか。 最終更新日時 2008年11月19日 23時7分50秒
慶応4年正月(1868年1月)、大坂城から出陣した慶喜(平岳大)率いる幕府、会会津、桑名の連合軍1万5千は、鳥羽・伏見でわずか5千の薩長軍と戦いますが、慶喜は相手の陣営に錦の御旗が翻り、自分たちが「朝敵」となったことを知って大坂城に撤退してしまいます。水戸徳川家に生まれ、幕府よりも朝廷をあがめる尊王思想の教えを守ってきた慶喜にとって、それは大変衝撃的なことでした。慶喜は、さらに同年1月6日(1868年1月30日)の夜、味方の軍勢を大坂城に残してわずかな側近と一緒に船で江戸に逃げ帰ってしまいます。 江戸城大奥の女性たちは、慶喜が味方を置き去りにして逃げ帰ったこと、朝廷から「朝敵」とされたことを知りみんな驚き大いに憤慨します。天璋院(宮崎あおい)はあきれ返り、本寿院(高畑淳子)は、徳川宗家を守るために慶喜の首を朝廷に差し出すべきだと怒り狂い、静寛院(掘北真希)も「慶喜公を許すことはできません」と言います。クールな滝山(稲森いずみ)も「慶喜公の命と引き換えに徳川家が安泰となるなら、それも致し方のないこと」との意見を述べます。 一方、江戸に逃げ帰った慶喜は、勝海舟(北大路欣也)に力を貸してくれと頼み込みますが、勝海舟は「頼るべき相手は天璋院様です」と助言します。慶喜はそれに対し、初めは「たかが薩摩藩の分家の娘に過ぎないのに、薩摩との繋がりがあるということから命乞いをせねばならぬのか。それに薩摩こそ自分を朝敵に仕立て上げた相手ではないか」と非常な反発を示しますが、他に方法はないと諦めて天璋院に会見を願い出ます。 天璋院も逃げ帰った慶喜に反発を感じていますが、慶喜が目通りを願っていると聞いて、躊躇しながらも「会おう。会わねば何事も始まらぬ」と会見を許可します。そして、あれこれ弁解を述べ、死ぬ覚悟もできていると言う慶喜に対し、天璋院は「きれいごとはもうよい」ときひしく叱責し、「もしあなたが最後の将軍として潔く散ったとしても、後に残された徳川宗家は惨めな抜け殻にすぎない。あなたには生きてもらわねばならない。生き恥をさらしてもらわねばならぬ」と言い切ります。 天璋院は、さらに慶喜を静寛院の部屋に連れて行き、「自分は薩摩に慶喜助命の嘆願書を書くつもりだが、宮様にもお力添え願いたいと協力を要請したので、静寛院も「母上さまの仰せでしたら」と快諾します。これにはプライドが高くてめったに感情を表に表すことなどはない慶喜も「なぞこの慶喜にそこまでのことを」と感激しますが、それに対し天璋院は「あなたは家族です。徳川に集う家族である以上、私は命をかけてあなたを守らねばらならないのです」と言い、また「人の上に立つものは孤独です。天下を治める将軍としてのその孤独はいかほどのものか……」と優しい慰めの言葉もかけるのでした。 ところで、三河さんから、「小松は大政奉還を強く主張し、関白にも大政奉還を受理するよう迫っています。/武力討幕を進めつつ大政奉還を進めた小松はどのような考えだったのか私にはどうもしっくり来ないんです」とのご意見をもらいました。 確かに拙ブログの「小松帯刀は西郷、大久保と意見が対立したのか?」という拙文で紹介しましたが、西郷、大久保と連名で「国家の為に干戈以て其罪を討ち奸兇を掃攘し、王室恢復の大業相遂度」と武力による慶喜討伐を請願する小松帯刀と、京都二条城の大政奉還の大会議に薩摩藩城代家老として出席し、大政奉還の趣意書に賛同し、慶喜に「皇国の御為に大政奉還のご英断、誠に感銘の至りと存じます。この上は一刻も早く朝廷へご奏上召されるようお願い申し上げます」と意見を述べる小松帯刀とを同一人物と考えることにはしっくりこないものがあると思いますね。 しかし、史料に基づく史実としては、小松帯刀は慶喜の武力討伐を計画する一方で、彼に平和的政権返上を説いていたのです。原口泉『竜馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社、2008年4月)では、薩摩藩の3人のリーダーについて、西郷は実行部隊の指導者であり、大久保は西郷をコントロールしながら得意な情報分析を行い、「そして帯刀は、西郷、大久保という二大傑物を見出し、彼らと組んで島津久光を取り込みました。それが集団として大きなカになつて時代を動かすエネルギーになっていったのです」と指摘し、「大政奉還か討幕かという岐路にあって、また一方においては、慶喜と久光が離反していく中で、小松だけは慶喜との良好な関係を保っていたことが、大政奉還に望みをつなぐパイプとなったのではないでしょうか。/帯刀の多方位外交能力と、いざというときのために大局を見据える政治能力が大きな意味を持ったことになります。大政奉還は、まさに帯刀の多方位外交の最大の成果だったと言っていいでしょう」と述べています。 最終更新日時 2008年11月17日 1時3分29秒 |一覧| |