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カテゴリ:天璋院篤姫
今夜(2月17日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第7回目は、於一(宮崎あおい)が薩摩藩主・斉彬(高橋英樹)の養女となるために今和泉家の両親(長塚京三、樋口可南子)たちと別れを告げて鶴丸城に上がるまでが描かれていました。娘との別れる悲しみをじっとこらえる島津忠剛の姿や、肝付尚五郎(瑛太)が秘かに心を寄せる於一にその思いを告げることなく、自害した菊本(佐々木すみ江)のことを忘れるのですときっぱりと言う場面(きっと自分に言い聞かせているのでしょうね)や城に向かう彼女の駕篭にお守りを握りしめて見送る姿には涙が自然と出てきました。
しかし、今回のドラマで菊本の遺書の内容が紹介され、於一(宮崎あおい)の将来を考えて、自分のような身分の低いものが育てたという事実を消し去るためにあえて死を選んだという話にはどうしても納得できませんでした。この「篤姫」のTVドラマは、現代の視聴者の感覚にマッチするように宮尾登美子の原作を大胆に手直しして軽快なテンポで展開してきたのですが、ここでどうして原作通りに菊本に自害させてしまったのでしょうかね。一般に身近な人の自殺というものは人の心に大きな傷を残すものですが、もしも菊本のような自害理由を遺書などに遺されたらたまったものではないですね。酷い精神的打撃を受け、いつまでも消えぬ深い精神的後遺症を残すことになるでしょうね。 宮尾登美子の『天璋院篤姫』という小説中でのこの菊本の自害は、人間の自然の情に反するばかりでなく、当時の封建的道徳にも絶対反する行為ですね。藩主の養女に家の娘が選ばれるというのは今和泉家にとってとても晴れがましいことです。そんな目出度いことが起った時に自害するのですから、父の忠剛でなくても「屋敷を血で汚し、罪人同様の所業じゃ」と激怒するのは当然のことです。菊本の自害は、赤子のときから育てた於一が藩主の養女となったその喜びと急な別れの喪失感からの精神的錯乱からの行動としか思えません。そんな原作の話をなんでTVドラマがわざわざ忠実に踏襲するのか私には全く理解できませんでした。 菊本の自害の話には、於一のみならず観ている私も別の意味でビックリさせられましたが、今回のドラマでは通商を求めてアメリカの軍艦が迫っているという情報が江戸にもたらされるという話も出てきますね。これには幕府の首脳たちは本当にビックリしたでしょうね。 なお史実に基づきますと、嘉永5年2月26日(1852年3月16日)に島津斉彬が別荘の磯邸(いまの仙巌園ですね)で開かれた花見の宴に篤姫の父親の島津忠剛を招き、於一と徳川家との縁組問題のことを話し合ったようですが、その直後(嘉永5年6月すなわち1852年7月))に長崎ではオランダ商館長に着任したクルチウスが長崎奉行に「和蘭別段風説書」でペリー来航の予告情報を伝えています。また、そのクルチウスが伝えた情報は薩摩藩の長崎聞役も長崎通詞から密かに入手し、斉彬に伝えていたそうですよ。 そして同じ嘉永5年6月頃、幕府の老中首座の安倍正弘はこの「和蘭別段風説書」の秘密情報を江戸城溜間(主な譜代大名が詰める場所)の諸侯に回達しています。その内容とは、アメリカ政府が日本に使節を送り、(1)日本人漂流民の送還、(2)交易のために2、3の港の開港、(3)石炭貯蔵場の確保、以上3つを要求するというもので、そのことを知った諸侯に大きな衝撃をあえてたそうです。 そして、嘉永6年3月1日(1853年4月8日) に於一が島津斉彬の養女となり、同年6月5日(1853年7月10日)に 鹿児島城(鶴丸城)へ入るのですが、その2日前の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にペリーの黒船が浦賀沖に姿をあらわしています。いよいよ「篤姫」ドラマは幕末の激動の時期に突入していくことになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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