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ポンコツ山のタヌキの便り

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2008年03月11日
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カテゴリ:天璋院篤姫
バルダさん、こんばんは、やまももです。

 篤姫の祖母・於珎(おたか)の娘時代が暮らしぶりから推測して、同じく島津一門家のお姫様として育った篤姫も箱入り娘として育ち、その生活空間も限られていたでしょうね。ですから、バルダさんが「江戸の町もろくに見ずに大奥入りしてしまった篤姫には、一体どれくらいの『世界』が見えていたというのでしょうか。。。/西郷に送った『嘆願書』書かれているのは、篤姫の視野の狭さのように思います。。。」とのご見解には同感ですね。しかし、ドラマでの篤姫の交際範囲はずっと広く、大いに「じゃじゃ馬」ぶりを発揮してあちらこちらを元気に飛び跳ねましたね。

 ところで、「15回から鷹司政通役で、元・劇団四季の光枝明彦さんが出演するそうです」とのことですね。鷹司政通といえば、当時の朝廷で30年間の長きに渡って実権を誇った人物で、孝明天皇が彼に非常なコンプレックスを抱いて反撥したそうですが、大河ドラマではどのように描かれるのか興味深いですね。

 さて、「家定をタダの暗愚としない脚本のようですが、実際はどうだったのでしょうか?/篤姫の努力にも拘らず、斉彬からの使命を果たせなかったのは家定がただの暗愚では無かったから…ということにしたいのかな?などと思いました」と書いておられますね。

 前回の大河ドラマ「篤姫」第10回目では、老中首座の阿部正弘(草刈正雄)が紹介する黒船対策の意見書に対して家祥(堺雅人)は「つまらぬ」と繰り返していましたが、その意見書の中に「黒船に乗り込み、酒と肴で酔わせて相手を油断させてから火薬庫に火をつけて吹き飛ばす」というものがあることを知って「それじゃ」と大喜びしていましたね。

 この場面に私は大笑いしてしまったのですが、こんな荒唐無稽な奇策が実際に幕府に対して提出されているそうですよ。岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(洋泉社、2006年5月)によりますと、江戸の新吉原で遊女屋を営む藤吉という人物が駕籠に乗って登城する幕府の若年寄・遠藤但馬守に差し出した訴状で提案しているとのことで、漁船を富津御台場の外で毎日一千艘操業することを許可してもらい、異国船が来たときに相手が喜びそうな品物を差し出して親しくなり、さらに油断したら品物を持って異国船に乗り込んで酒宴などを催し、酒に酔ったふりをして喧嘩を始めて異国人たちを巻き込み、その間に火薬置き場に火を付け、異国人を鮪包丁で片っ端から切り捨てるというプランだそうです。

 実際に家定がこんな奇策を耳にしたかどうかは分かりませんが、ドラマの家定は敢えて道化て大喜びしたのかもしれませんね。では、史実では徳川家祥(後の家定)はどのような人物だったのでしょうか。

 篤姫の結婚相手となる徳川家祥は、第12代将軍家慶の第4男として生まれ、嘉永6年11月23日(1853年12月23日)に家定と改名して将軍職に就任しています。なお、父親の家慶には13人の男子と16人の女子がいたそうですが、無事に成長できたのは家定以外には5男の慶昌と6女の暉姫だけだったそうです。

 このことから、宮尾登美子『篤姫の生涯』(NHK出版、2007年11月)は、「父家慶も、傍に仕える者たちも風にも当てぬよう大事に育て、そうした過保護も加わったせいでしょう、極度にひよわな将軍になってしまいました。癇症で、身体の線も細く、言葉もはっきりせず、こめかみにみみず腫れのような青筋が浮き出していて、いつもぶるぶるふるえていたといいます」と作家らしい想像力も加えて紹介しています。

 しかし、徳永和喜『天璋院篤姫 徳川家を護った将軍御台所』(新人物往来社、2007年12月)には、家定の小姓をつとめた朝比奈閑水の手記(口語訳、『徳川慶喜公伝史料篇一』六八)のつぎのような家定像を紹介しています。

「父君家慶は家定の振る舞いには深く憂慮されていたのではないだろうか。江戸城で執り行われる儀礼日に同座されるときや同道するときには、近くにいながら苦々しいことばかりであるとしながらも、御能のときは平常の癇癪による怪しい振る舞いがみられない、そのために家慶は御能の観劇をたびたび開かれたようである。実際は御能は嫌いで狂言が好きなようであり、狂言のまねごとをして戯れることもあった。それは実に驚くほどの手際の良さであった。舞台で舞われるのではなく、人のいないところで、平常のままで狂言を巧みにまねていたという。」
「世間にては暗愚の君であると甚だしいまでに諸書に散見するが、時代が文化・文政・天保のころなれば、これほどに世情の風説に取り上げられることはなかったであろう。諸大名でも、薩摩藩主島津斉彬・肥前藩主鍋島斉正(直正)・越前藩主松平慶永・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内豊信は格別であり、そのほかの国持ち大名を評価すれば、家定におよばざるものが多かったであろう。家定が将軍になったころの国難は特別な英明君主でもなければ対応できるものではなく、ましてや補弼すべき幕閣にも有能な人物が不在であったため、時世の移り変わる速さについていけなかったことはやむを得ないことであった。
 家定は神経過敏で怒りやすく、立ち振る舞いにも意外な感じがみられた。嘉永のアメリカの渡航により京都(朝廷・公家・勤皇志士)の政治的動き、国の内外の折衝には格別の配慮をされ、夜を徹して頑張った。」


 暗愚だったと評される家定について、このような意見もあったのですね。





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最終更新日  2008年03月11日 23時18分00秒
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