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カテゴリ:ドラマ「マッサン」とウイスキー
NHK朝の連続ドラマ「マッサン」では、鴨居商店の山崎ウイスキー工場から出荷された日本初の国産ウイスキー「鴨居ウヰスキー」は全く売れず、経営者の鴨居欣次郎(堤真一)は「従業員、食わせていくためや、メイドインジャパンのウイスキー、広めるためやったら、わては、何でもやったる!」として日本人の嗜好に合わせるようマッサン(玉山鉄二)に命じますが、マッサンは本格ウイスキー造りの夢を捨てられず、「そのためには、大将のもとを離れる事が、一番じゃ、思いました」と言って鴨居欣次郎に辞表を提出します。そしてウイスキー造りに最適と考える北海道の余市にまず資金造りのためリンゴ汁製造・販売する北海道果汁株式会社を設立することになります。
そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立がドラマでは次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。 この経営者としての鴨居欣次郎と技術者であり職人であるマッサンの対立はこのドラマの大きな見せ所となっていますが、実際の寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝との間にはどのような関係があったのでしょうか。実話を基にした小説やテレビを読んだり見たりして興味を持ちますと、私の悪い癖で実際はどうだったのだろうかと無性に知りたくなります。それで文献に基づいて、日本で最初の本格ウイスキー造りにかかわった寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝のことを調べてみることにしました。 寿屋の鳥井信次郎について書かれた文献としては、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史や森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』(新潮文庫、1983年)がありますが、まず主として両書に基づいて鳥井信次郎の略年譜を日本初の本格的ウイスキーサントリーウイスキー白札」販売までを簡単に紹介しておきたいと思います。 鳥井信次郎前半生の略年譜 1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。 1890年(明治23年)11歳で大阪商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)に入学。 1892年(明治25年)13歳で同上学校を中退し大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出る。 1899年 (明治32年) 大阪西区靭中通に鳥井商店開業、葡萄酒の製造販売を開始。 1906年 (明治39年) 店名を寿屋と改名。 1907年 (明治40年) 甘味果実酒「赤玉ポートワイン」を発売。 1924年 (大正13年) 4月に京都郊外の山崎にウイスキー工場起工、11月に竣工し本格的蒸留作業開始。 1929年 (昭和4年) 4月に「サントリーウイスキー白札」販売。 1937年 (昭和12年) 10月に山崎工場で12年間熟成された「サントリーウイスキー角」発売され大ヒット。 1962年 (昭和37年) 2月20日に急性肺炎で死去。享年83。 1981年 (昭和37年) サントリーオールドが年間出荷数1240万ケース、1億3000万本以上で単独銘柄としての世界最高を記録。 なお、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』の147頁~148頁には鳥井信治郎がウイスキー醸造を開始しようとして竹鶴正孝の名前を知る経緯がつぎのように書かれているだけです。 「信次郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのときイギリスでウイスキーづくりを勉強して帰って来た青年技師がいることを教えられた。それが竹鶴正孝である。/まだ二十代であった竹鶴を年俸四千円でむかえいれた。」 同上書にはウイスキー造りについての両者の対立など全く書かれていません。しかし森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』の121頁~123頁には、鳥井信次郎が大正13年(1924年)に竹鶴正孝に任せて起工した山崎のウイスキー工場から約4年半後の昭和4年(1929年)4月1日に寿屋から売り出した「サントリーウイスキー白札」が全く売れず、ウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)が「こげくさい」と敬遠されたことや、その後さらに原酒が数年樽に寝かされて熟成し、そこに多くの学者と技術陣の知識と研究が加わってサントリーならではのウイスキーの味が作られたことや、その過程で初代工場長の竹鶴正孝と対立し、竹鶴が辞任して北海道で大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立する経緯がつぎのように紹介されています。 「ところが、鳥井信治郎が勢いこんで売り出した『サントリー』の評判はよくなかった。 『こげくそうて、飲めまへんわ』 これが、大方の意見であった。信治郎自身も後日、正直にそれを認めている。 『初期の頃はこげくそうて、実際に飲めたもんやなかった。モルト(麦芽)の乾燥に、ピート(草炭)は多い方がええと思うて、燃やしすぎたんやな。それで大麦が、死んでしもたんや。あのこげくさい匂いも、ほんまのところ、ちょっとはなくちゃいかんのやが……。 なんぼ造っても売れんから、蔵へ入れ蔵へ入れして、ほっといたんや。そないしてストックしているうちに、だんだん味がようなってきた。禍い転じて、福となったわけや。』 この"こげくささ"は、本格的なウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)とよばれるもので、必要なものなのである。が、過ぎたるは及ばざるが如しで、どうも初期の頃はこれを重んずるあまり、ピートを焚きすぎたらしい。 実際のところ、信治郎のブレンドが真にその力を発揮しはじめたのは、山崎の原酒が次第に良くなってきてからのことである。良き原酒があってこそブレンドも生きてくる。しかしそのためには、京都帝大の片桐英郎博士らの意見を取り入れ、さらに台湾の専売局から、日本でアミロ法による醸醇を最初に成功させた、上田武敏や佐藤善吉らを社に招く必要があった。多くの学者と技術陣の知識と研究が加わって、はじめてサントリーは、サントリーとしての味を身につけたのである。 不幸なことに、初代工場長・竹鶴政孝は、これらの新しい技術陣と相容れず、またブレンドについても、鳥井信治郎と意見の一致しないところがあり、後日、信治郎が始めた横浜のビール工場に移り、そのあと寿屋を去って北海道へ渡り、大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立した。」 では、竹鶴政孝自身はその頃のことをどのように述べているのでしょうか。非売品として発行された竹鶴正孝著『ウイスキーと私』(ニッカウヰスキー、1972年2月)がNHK出版から2014年8月に改訂復刻されていますので、同書に基づいて紹介したいと思いますが、まず先に同書や植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版、2014年8月)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等に基づいて竹鶴正孝の略年譜を作成し、下に簡単に紹介しておきます。 竹鶴正孝 略年譜 1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。 1916年 旧制大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。 1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。 1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。 1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。 1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。 1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。 1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。 1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。 1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。 1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。 1961年 リタ64歳で死去。 1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。 1965年 髭のおじさんマークの「ブラックニッカ」(一級)発売、幅広い人気を得る。 1979年 85歳で死去。 竹鶴政孝は、1929年に日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」を発売した当時のことを『ウイスキーと私』でつぎのように述べています。 「無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウンダー(混合者)の知識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がないためブレンドするにもむずかしかったという理由はあるが、他方ではウイスキーを商品として早く出さねぼならない情勢もあった。 だからこのときは、まだ理想的ブレンドをしたウイスキーとまではいかなかったが、とにかく昭和四(一九二八)年四月一日、初めての本格ウイスキー『白札サンーリー』は世に出たのである。 発売価格は一本三円五十銭であった。ジョニー・ウオーカーの赤が五円の時代である。その後、普及品の『赤札サントリー』を出したが、いずれも売れ行きも評判もよくなかった。 また時代も早すぎたのである。 鳥井さんがウイスキーによせられた期待と情熱、その要望にこたえようとした私も一生懸命であったが、宴席といえぼ日本酒ばかりで、夏はともかく、冬ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど相手にもされなかった。 売れないから当然原酒が残った。 だがこのとき残った原酒は十年前後の歳月がたって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである。」 日本で最初の本格ウイスキー造りを開始した寿屋ですが、同社は同年にさらに「オラガ・ビール」を買収し、竹鶴正孝にビールの横浜工場長の兼務が命じられます。そのときのことを竹鶴正孝はつぎのように語っています。 「しかし工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。 私もそろそろ四十歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。 とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。 もともと契約は十年の約束であったし、私はつねづね自分でウイスキーづくりをしたいと思っていたので、その期限の来た昭和七年に退社したいと申し入れたが、保留されていたのだった。 とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。 そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない。」 なお、植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)によりますと、鳥井信治郎がビール製造に手を出したのは、売れ行きの悪いウイスキーを擁護するためであり、67万円で買い取ったビール工場が300万以上で売却できると知るとすぐにビール工場を手放してしまいます。そして竹鶴正孝に「さあ、もう安心やで。これで金繰りのほうも一息ついたよって、あんたはんも山崎工場に戻って、また以前のようにバリバリ働いてや」と言ったそうです。しかしこのとき竹鶴正孝は自分が一介の技術者に過ぎないことを痛切に感じ、約束の10年間は働いたことでもあり独立しようと考え、1934年3月1日に寿屋を退社、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵と共同出資して同年7月に北海道の余市に大日本果汁を設立することになります。そのとき、加賀からは「わては株屋や。ウイスキーのほうはわかりまへん。わては金出すさかい、竹鶴はん、あんたは技術を出しなはれ」と運営の一切を任され、北海道余市にウイスキー蒸留所を完成することになったとのことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年06月23日 10時37分06秒
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