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カテゴリ:やまももの創作短編
いまから4年前(2012年8月13日)、内川さんの父は90才の高齢で他界しました。医者の死亡診断書には「誤嚥性肺炎」と書かれてありましたが、高齢に拠る体力低下に伴って起きた肺炎のようで、以前なら「老衰」と診断されたに違いありません。実際、内川さんの父はほとんど苦しまず安らかにあの世に旅立って行きました。
内川さんの父が他界する11年前の2001年1月に母が77歳で先立ち、父は独り身となった淋しさと本来の酒と女が大好きなことから、繁華街の天文館のバーに足繁く通うようになり、馴染みのバーの女性から婚約解消の慰謝料四百万円を請求されたこともありました。父はそのことに困惑して彼になんとかならんかと相談して来たことがあります。内川さんは父の家に金を取りに来た相手の女性と会って、「慰謝料四百万円なんて法外な金が支払えますか。すでに親父が支払った金額は致し方ないとして、残りの金はびた一文払いませんよ。訴訟を起こすなら起こしなさい。受けて立ちましょう」なんて勇ましく啖呵を切ったものです。 その後、内川さんの父の認知症が進行したこともあり、天文館での金遣いがますます荒くなり、郵便局のATMから一日の上限50万円を繰り返し引き出すようになり、通帳に何千万円もああったものが二年間の間にあっという間に無くなってしまい、仕方がないので内川さんは妻に父の通帳を管理してもらうようになり、他界する三年前にはグループホームでお世話してもらうようになりました。 穏やかな大往生が遂げることができた内川さんの父の生涯は、子どもだった内川さんの目から見てもとても幸福なものだったと思います。内川さんの父は地方銀行の重役の末っ子として生まれ、何不自由ない子ども時代を過ごし、当時としては僅かな人だけしか受けられなかった高等教育も受け、戦争中は軍事訓練は受けたようですが、実際に戦地に送られて血生臭い体験をすることもなかったようです。このことだけでも同時代の男性としては極めて幸せなことですよね。 戦後、内川さんの父は大学で専攻した農業土木の専門知識を活かして奈良県庁耕地課、奈良学芸大学を経て民間会社の大阪茨木市の施工会社、コンサルタント会社に移り、その後島根大農学部に勤務し、定年退職後には息子の住む鹿児島市に終の棲家を建てました。 内川さんは残念ながら、職業人としての父の姿はほとんど知らないのですが、若い頃の父がお酒が大好きで、よく夜遅く友人を連れて酔って帰宅して来たことは覚えています。テニス、社交ダンス、オートバイも大好きで、休日にはそれらの趣味を外に出て大いに楽しんでおり、家でじっとしている姿などほとんど見たことがありませんでした。浮気がバレて母とよく喧嘩もしており、彼は幼い胸を痛めたものです。内川さんが子どもの頃の父は我儘一杯やりたいことを好きなようにやっているように見えました。 内川さんの父が高齢で他界し、また彼の父の親類や知人の大半が高齢で遠隔地の住人等のことから判断し、葬儀は家族葬で執り行うことにしました。家族葬は8月15日の終戦記念日に真夏の太陽が照り輝く昼過ぎから行いましたが、葬儀の雰囲気もその日のお天気のようにカラっとしたものでした。そしてまた、晩年に酒と女に溺れた彼の父の姿になぜか他人事のように冷静な目で見つめていた内川さん自身に彼はなんとも言えぬ悲哀を感じたものでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年06月16日 19時06分13秒
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