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カテゴリ:他事暴論(たびたびタジタジ、)
国家っていうの、死刑っていうのがあったり、武力があったりということでは暴力装置なんだね。
暴力装置っていうのは、暴力の範囲を決めたり、制限する主体ということが言えるかな? 本多勝一の「殺す側の論理」というのは、出版された当時としては少し過激に思われるネーミングだったかと思うのね。 じゃあ、それを今、どう言うかというと「殺せる側の論理」ということになるかと思う。 どうもそういった自覚がないように思う。 変な理論に思うかもしれないけれど、そんなことについて説明してみる。 【ママにはっきり説明してちょうだい。どっちがいいの? 算数の塾に行くのと、うちの子でなくなるのと?】(by小田嶋 隆) ↑このもの言いは、子どもから見ると、生存をおびやかすものだと言えないかな? 母親の「殺す側の論理」と言っては言い過ぎかな? 「この権利行使はあまりしていないよ」って言うかな? でもね、けっこう今、これが多いような気がする。 「殺せるけれど、殺さない」ということを留保しているということでは「殺せる側」って言うのが妥当かな? 自分が「殺せる側」であるということに人は目を塞ぎがちなんだと思う。 そして、家族のことはプライベートなこととして、国はあまり立ち入らないかな? さて、この物言いを国に当てはめてみる。 【国家にはっきり説明してちょうだい。どっちがいいの? 愛国心を高らかに言うのと、日本人でなくなるのと?】 「愛国心教育」の中身ってこれでしょう? 国家がこれを言って良いとしているから、中身を審議しているんじゃない? (「逝って良し」…?) だとしたら、算数の塾のところを、ピアノのお教室とかに変えようとしているだけなんじゃないかね? たちが悪いのは、「もっと耳ざわりのいい言葉はどれかな?」ってやっているということに、当人たちが気がついていないように見えること。 良くわかっていて、やっている人もいると思うけれどね。 こういうところに気がつかないんだとしたら、やっぱり、子どもに「どっちにするの?」っていうことを、その人はやりがちだということだよ。 「殺す側」と呼ばないにしても、やっぱり、少なくとも「殺せる側」にあるということだと思うよ。 で、どうもやっぱりそのことに無自覚である人が多いということが言えると思う。 自分よりさらに弱いもの、幼いものに向かうというのは、人を生存をおびやかすような判断停止の状況に追い込んでコントロールするという、この無自覚な世の中の風潮から発生している感じがする。 話が飛ぶかもしれないけれど、ネット右翼と呼ばれる人たちって、どっちかって言うと、生存権おびやかされて、「ママー、捨てないでー」って母親に必死にむしゃぶりついていたガキばかりなんじゃないかな? そのくせ、「うへへ、俺も殺せる立場に立ちてー」ってな感じでうるさく言い募る…。 …この人たちが「逝って良し」って言葉をなんで好んで使うのかがよくわかる感じがする。 たぶん、親にそういうコントロールを受けてきた人たちとも言えるかも? (…おかわいそうに…) ほんで、必死にしがみついて生かしておいてもらえたから、「親をありがたがりやがれ」って人にも押し付けるのかな? それと、普段からキャンキャン吠えていないと、国のために死ぬ決意が持てないということも、よく吠える原因かな? 無駄泣きしていないで、こういうところ、自分でよく見てみたらどうかと思う。 (自分の弱虫加減をとことん見てね) こういう人間をさらに増やそうとしているのが、「愛国心教育」じゃないかな? 親殺しっていうの、子が親にもうすでに精神的に殺されているというところから始まっているんじゃないかと思うのね。 過激な言い方になるかもしれないけれど、弱いものに向うより、親殺しのほうがなんぼかマシだと思う。 (弱いものいじめじゃないってだけの理由だよ) うーん…殺される側にも理由があるということになっちゃうかな? 「愛国心」を人に押し付けていいものだとして声高に言う人は、殺される自覚を持ったできの悪い親であること、そうなりかねない人間になりそうだの自覚がどこかにあるのではないかと思う。 …感覚があるだけマシ? ただし、そういう感覚が「少子化」を生んでいるのではないかということになるんじゃないかな? 「少子化対策」に予算をつけて、お金でコントロールしようとするなら、なんか右手と左手で違うことをやっている感じがするし、生存権をお金で操作しようとしているということにならないかな? …読んでいないけれど、『虐待された子どもたちの逆襲』っていう本って、こういう内容を持っているんじゃないかな? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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