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カテゴリ:本人はいたってまじめな本の話(本がだよ)
書き始めたときに書きたかったことと、書いてみたらずいぶん違っちゃったんだけれど、まあ、別の部分で気になっていることが書けたのでアップするのね。
この本で説明するディスレクシアは、言語系統の異常で音素をはっきりと理解することができない結果、読むための記号をデコーディングするのに支障をきたしている人を指している。 デコーディングっていうのは、文字記号から音声を想起すること。単語を音に分解することも含めた文字の音声化ってことだよ。 この部分がうまく行かないだけで、他の機能については問題がない人が確かに統計的に多いみたい。 そういう人たちを総称して、この本ではディスレクシアと呼んでいる。 えーと、この定義によれば、ようちゃん2号は、めでたくデスレクシアではない可能性がある。 英語がわからんと公言しているようちゃん2号は、日本語を使っている限りはディスレクシアではないわけ。 以下↓引用。 --------------------------------------------- ディスレクシアにおいては言語機能のうち音韻的な部分に傷害があるが、より高いレベルの部分は無傷だという結論がでる。音韻的な能力は知能とは無関係どころかまったく別のものだ。高い知能をもつ子供が、ディスレクシアとなる一方、知能的にはそれほどではない子供が読み方に関しては比較的簡単に習得する。ディスレクシアであるかどうかの目印は知能ではなく音素認識にあると知って驚く人も多い。 --------------------------------------------- 以上↑引用。 トラックバックするけれど、英語教育に関してようちゃん2号は早期教育をすることに、それほど否定的ではないのね。 それは、自身の経験と密接に関わりあっているんだと思う。 そして、こういう研究が、後付けで、ようちゃん2号の勘がそれほど間違っていなかったことを裏付けてくれているような気がする。 ようちゃん2号、自分ができないからといって否定するつもりはないの。 そんなのは、自分を尺度にしか物を考えないバカがやることだな。 逆に、自分ができたからといって肯定する人は、自分ができることを尺度として人に押し付けていいとするなーんもわかっていない人で、こういう人のほうがよっぽどたちが悪いと思う。 早くやらしときゃできるんじゃないか?っていう根性論ってそういうところから出ているかな? 「愛国心教育」なんていうの、ほんとう、たちの悪いバカからしかできない発想だと思う。 日本語と英語を分けている一番大きなところは、原則一文字一音の日本語に対し、調音統合があるためにアルファベットがそのものズバリの音を表現するものではなく、不規則な記述になりがちなこと、また、やはり調音統合があるために聞き取りには音素の分解を必要とされるということにあると思う。 英語を大人になってからマスターし、習熟したという経験のある人ほど、音素の聴き取り自体は早く始めた方が良いという主張で一致しているのは、その人がどこに苦労したのかを、よく把握しているからだと思う。 こういうことに、ちゃんと耳を傾けられないんだとしたら、音素分解ができるできないよりよっぽどのバカということになると思う。 そんで、どうもそういうバカが多い気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年06月07日 22時36分51秒
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