第408回 【都電の残像編(62)】 東五軒町(ひがしごけんちょう) 後編
(前回からのつづき)江戸期、この付近には小日向馬場と呼ばれた馬場があり、その築造のための土取りをした跡地が、土取り御用を果たした5人の者に給され、五軒町の町名が起こったと伝えられます。明治5年から牛込西五軒町、同東五軒町が起立し、同44年に牛込の冠称は外れたものの、当時の町名が現在もそのまま残されています。もともと新宿区北東部の旧牛込区エリアは、古くからの町名が多数残されている特異な地域であり、地図を確認すると、東五軒町の周辺だけでも、水道町、改代町、築地町、白銀町などの町名を見ることができます。本ブログでこれまでにご紹介した山伏町、納戸町なども、このエリアの町名です。神田川を中心にぶらぶら歩いていると気が付きますが、この周辺は印刷や出版、取り次ぎといった本にまつわる会社が多く、大手の巨大なビルだけでなく、中小の印刷、製本業者の工場も数え切れないほど見ることができます。明治期以降、この付近の神田川では紙の原料である「こうぞ」をさらすなどの光景が日常的に見られ、紙産業の発展が著しかったといいますが、そうした歴史と現在の街の表情とは、決して無関係ではないのでしょう。かつての都電15系統は、この先の大曲を経て、飯田橋へと向かいました。↑↑↑ブログランキング参加中です。