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バス停地名学のすすめ

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このブログでは「バス停地名学のすすめ」と題して、東京のバス停に残る失われた地名、懐かしい地名をピックアップしながら、実際に私が現地を訪ねて歩いた記録を、気ままに綴っています。

バス停地名学のすすめ [全442件]

第402回 【都電の残像編(56)】 杉並車庫前(すぎなみしゃこまえ) 後編  (2) 
[ 杉並区 ]  

(前回からのつづき)

桜並木が続く車庫東側の塀際を歩いていくと、ちょうど車庫の真裏に梅里児童公園という小さな公園がありますが、ここはかつて軌道に送電した変電所の跡地のようで、その変遷を伝える貴重な碑を見つけることができましたた。人通りの多い場所ではなく、その存在もあまり知られていないと思われるので、全文をご紹介しておきます。

この公園は、昭和四十年に西小沢児童遊園として開設されました。この辺りは、昭和初期まで西小沢と呼ばれ五日市街道と青梅街道の交わる交通の要所でした。
ここにあった建物は大正十年に西武軌道の変電所として建てられ、当時にしては珍しいコンクリート造りでした。昭和二十六年に都電杉並線となり昭和三十八年の廃止に伴い変電所は地元の運動により梅里敬老会館として生まれ変わり、作家有吉佐和子の小説「恍惚の人」の舞台にもなりました。
平成十年、新敬老会館の建設に伴い撤去され、この公園と一緒になりました。
              平成十一年三月 杉並区


有吉佐和子『恍惚の人』(昭和四七年)は、認知症や老人介護の問題に正面から向き合ったベストセラー小説で、これまでに何度も映画化、ドラマ化、そして舞台化されてきた作品ですが、作中にはこんな記述を見つけることができます。

近所の菓子屋で、挨拶がわりに洋菓子の箱詰めを買ってから、梅里敬老会館を訪ねた。昔は変電所だったという洋風の建物だが、玄関を入るとすぐ目の前に交番のような事務所があって、その中に若い女性がこちらを向いて腰かけていた。

路面電車の変電所という小さな存在ではありますが、区の施設として再利用され、小説の舞台ともなり、そしてその歴史が碑に刻まれているという事実の発見は、私のような散歩者にとって、最上の掘り出し物といえるでしょう。

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最終更新日時 2010.02.07 21:55:44
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2010.02.03

第401回 【都電の残像編(55)】 杉並車庫前(すぎなみしゃこまえ) 前編 
[ 杉並区 ]  

バス停データ
◆所在地:杉並区 ◆路線:都営バス[渋66]系統他

みなさん、こんにちは。

前回の成子坂下から青梅街道をさらに西へ進み、鍋屋横丁を過ぎてしばらくすると、中野区を通り抜けて杉並区へと入ります。旧蚕糸試験場跡地の蚕糸の森公園の先が環七通りの高円寺陸橋で、これをくぐると間もなく左手に都営バスの車庫が見えてきますが、ここがかつての都電14系統の杉並車庫、及び杉並車庫前電停の跡地です。

都電の廃止後、それまで堀ノ内にあった都営バスの車庫がここに移り、交通局杉並自動車営業所として長く存続していました。その後、管轄路線の縮小などにより支所に降格し、バスの運行が民間委託されるなどの変遷を経て現在に至りますが、車庫入口に立つバス停は、都電時代から不変の杉並車庫前であり、○○車庫前を名乗る電停を受け継いだバス停のうちでは、現在もそのまま存続している唯一の事例となっています。

車庫の前身は、大正10年開業の西武軌道の営業所です。奥行きの深いゆったりとした敷地に、飛行機の格納庫のような大きな車庫が特徴だったといいます。都電の車庫につきもののトラバーサーが無かったというのも、担当系統が1路線のみで、在籍した車両数も他の車庫に比べて少なかった故のことでしょう。

西武軌道による開業当初、車庫前電停は高円寺と称していました。大正11年開業の中央線高円寺駅より一年早い開業であり、本家高円寺といったところかもしれません。但し、地名の由来である宿鳳山高円寺へは、中央線高円寺駅の方が最寄になります。

(次回へつづく)

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最終更新日時 2010.02.03 22:46:23
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2010.01.31

第400回 【都電の残像編(54)】 成子坂下(なるこさかした) 後編 
[ 新宿区 ]  

(前回からのつづき)

バス停前の青梅街道北側では、大規模な再開発工事が進行中です。つい数年前まで見られた民家やアパートの密集する古色蒼然とした住宅街は一掃され、百人町方面へ抜ける道路も大幅に拡張整備され、街そのものが全く新しい景観に生まれ変わろうとしています。

その工事の喧騒を背に、青梅街道を新宿駅方向に歩いてみます。通りは緩やかな上り坂となっていますが、これが成子坂です。明治の末頃まで、この付近は成子町と称し、街道に筵を敷いて商いをしていた源左衛門という男が、店に鳴子を鳴らす紐を下げ、客がそれを鳴らすという光景がこのあたりの名物となり、後に成子の地名が生じたといわれます。他に、田畑で鳥を追い払うための鳴子に因む地名とする説もあるようです。

坂の左手に見える大きな鳥居は、成子天神社です。先ほどの再開発工事が境内のすぐ脇まで迫り、社殿周辺も残念ながら静寂とは言い難いですが、創建は延喜3年(903)と伝える古社で、寛文元年(1661)からこの地に鎮座し、成子の鎮守として親しまれています。境内奥には、新宿区内最大級とされる富士塚もあります。成子富士と称し、もともとこの地にあった天神山という小丘を大正9年に改造して築山したものといいますが、残念ながら現在は境内中ほどから奥が立入禁止となり、その姿を見ることはできません。

坂の中腹からバス停を振り返ると、絶え間ない青梅街道の車の流れ、街道南側の高層ビル、そしてスケールの大きな再開発工事という景観の中で、ポツンと立つ成子坂下のバス停だけが、旧時代の遺物のようにも見えてきます。

=============================

おかげさまで、今回で連載400回となりました!
ブログ開設当初は、これだけの回数を続けられるとは夢にも思いませんでしたが、日々たくさんの方々にご訪問いただけたことが糧となり、ここまで続けてまいりました。
まだまだ訪ねてみたいバス停はたくさんあります。
これからも「バス停地名学のすすめ」を、宜しくお願いいたします。

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最終更新日時 2010.01.31 23:18:56
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タグ:再開発 , , 神社

2010.01.27

第399回 【都電の残像編(53)】 成子坂下(なるこさかした) 前編 
[ 新宿区 ]  

バス停データ
◆所在地:新宿区 ◆路線:都営バス[王78]系統他

みなさん、こんにちは。

「杉並線」の愛称で親しまれたかつての都電14系統は、新宿駅西口に近いJR大ガードの西側にあった新宿駅前電停から、青梅街道を一直線に西へ下り、荻窪駅前までを結んでいました。都電の営業エリアとしては西に大きくはみ出た路線で、新宿駅前の乗り場は独立し、他の系統との線路の接続も無く、この線のみが狭軌(1067ミリ)を採用していた等、都電の中では異色の存在でしたが、これはその前身が(旧)西武鉄道による軌道線で、昭和26年に東京都が買収した路線であることに起因しています。

買収から10年後の昭和36年、青梅街道の直下に地下鉄丸ノ内線の延伸部(当時の呼称は荻窪線)が、新中野まで開業。翌37年には荻窪まで全通し、杉並線との完全な競合関係となりました。急速に沿線人口が増加していた中野区、杉並区の状況を見れば、最早のんびりとした都電に勝ち目は無く、地下鉄開業を境に杉並線の利用者数は激減し、それでも一年以上は持ちこたえたものの、昭和38年11月をもって全線廃止となりました。戦後の都電として、トロリーバス置き換えのため廃止となった江戸川区の26系統を除けば、系統そのものの廃止はこれが最初のことで、9・10系統の青山線迂回に続く大規模な廃止でもありました。

廃止当時、新宿〜荻窪間に17あった電停のうち、現在も同名のバス停が残るのは3ヶ所です。このうち、まずは地下鉄西新宿駅に近い成子坂下バス停を訪ねてみました。バス停のある西新宿三井ビル前付近が、成子坂下電停の跡地でもあります。

(次回へつづく)

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最終更新日時 2010.01.27 10:03:58
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2010.01.24

都電保存車両めぐり(8) 7514号 
[ はみだし ]  

みなさん、こんにちは。

今回は、小金井市の江戸東京たてもの園に展示されている、7514号をご紹介します。

車体更新前の7500形については、既に7504号7508号をご紹介済みですが、今回の7514号はワンマン化工事がなされていない車体のため、この形式の「原形」ともいえる姿をとどめている点に注目です。廃車から約20年もの間、荒川車庫で保存されていましたが、平成11年に江戸東京たてもの園に移され、今では同園のシンボル的な存在で、来園者の人気を集めています。

管理の行き届いた施設内の展示物というだけあって、塗色も鮮やかで、方向幕やサボなども美しく復原されています。車内には、同形式が活躍した青山車庫時代の6・9・10系統の路線図も掲示され、往時の雰囲気がよく再現されています。この路線図をパッと見て「青山線迂回後だ」とすぐ分かる人は、相当な都電ファンといえるでしょう。

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最終更新日時 2010.01.24 22:16:18
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2010.01.20

第398回 【都電の残像編(52)】 若松町(わかまつちょう) 後編 
[ 新宿区 ]  

(前回からのつづき)

かつての都電13系統は、若松町交差点から大久保通りを東へと進みました。現在この交差点には4本の路線バスが通過しますが、残念ながら13系統と同じルートを取る路線はありません。路線バスの大幅な改編が行われた都営大江戸線開業当初、大動脈だった[秋76]系統廃止後の若松町から東の大久保通りでは、市ヶ谷駅経由で新橋駅へ向かう[橋63]系統のみが細々と存続していましたが、やはり路面交通の需要をすべて地下鉄に移すことは利用者の意に反したようで、[秋76]系統のルートを一部補うような形で、大久保駅方面から飯田橋駅へ向かう[飯62]系統が平成14年に新設され、現在に至っています。

若松町交差点から北へ向かう通りは、早稲田方面への下り坂ですが、これを夏目坂といいます。この坂の先に喜久井町の町名があり、いずれも夏目漱石ゆかりの地名で、その著書『硝子戸の中』(大正四年)に、こんな記述をみつけることができます。

私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聞いたものか、またはほかのものから教わったのか、なにしろ今でもまだ私の耳に残っている。(中略)父はまだその上に自宅の前から南へゆく時にぜひとも登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている

坂下の早稲田通りと交わるあたりの一角が、夏目家の旧家跡、すなわち漱石生誕の地となります。

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最終更新日時 2010.01.20 12:38:26
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2010.01.18

第397回 【都電の残像編(51)】 若松町(わかまつちょう) 前編 
[ 新宿区 ]  

バス停データ
◆所在地:新宿区 ◆路線:都営バス[宿74]系統他

みなさん、こんにちは。

前回の河田町交差点から東京女子医大方面へ向かう人の流れを右手に見ながら、かつての都電13系統が走った抜弁天通りを北へ進むと、間もなく大久保通りが東西に横切る若松町交差点が見えてきます。ここが都電時代の若松町電停跡地であり、現在も都営バスの若松町バス停が立っています。

都営大江戸線の若松河田駅が、若松町と河田町の二つの町名を合成した駅名であることは説明するまでもありませんが、位置的には前回の河田町バス停の真下に駅があり、若松町バス停からは少し離れています。両バス停が、隣り合った近い距離であるにもかかわらず、若松河田駅前として統合されずに、都電時代の電停名を忠実に承継した姿を保っていることは、本ブログとしては嬉しい限りです。

この付近は、元禄12年(1699)頃から開けた町地だったと伝えられ、町名は、ここから正月用の若松を幕府に献上したことに因むといいます。若松町交差点の北西側は、江戸期に三十人組の屋敷地だったことから、牛込三十人町と称していました。江戸期の面影を現在の街並みから探し出すのは不可能と思いきや、交差点手前から細い路地を左へ入ると、その先に江戸期から火除神として祀られた八兵衛稲荷の小さな境内が隠れるように佇み、私のような散歩者にほっと一息つかせてくれます。

(次回へつづく)

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最終更新日時 2010.01.18 23:20:59
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2010.01.13

第396回 【都電の残像編(50)】 河田町(かわだちょう) 後編 
[ 新宿区 ]  

(前回からのつづき)

かつての都電13系統廃止後も、この周辺の地域は鉄道の便に恵まれず、都営バスが唯一の公共の足として機能していました。中でも、都電の代替系統だった[秋76]系統は、新宿駅と牛込地区を結ぶ幹線系統として欠かせない存在でしたが、平成12年の地下鉄大江戸線開業により廃止となり、他の関連系統も減便等の措置がなされました。

河田の地名は、田地や湿地帯を示すもので、古くは川田ヶ窪町の名もあり、東京女子医大南側から曙橋方面への谷状の地形を見ると、その地名由来にもどことなく頷けるものがあります。牛込地区でありながら、昭和61年の住居表示施行まで市谷河田町と称していたのは、谷地が市谷方面に開けていたことによるのかもしれません。

河田町といえば、以前はフジテレビの所在地として知名度が高かったですが、平成9年に同局がお台場へ移転し、街の様相も幾分寂しくなったのではないでしょうか。現に、大江戸線開業の際、駅名は当初から若松町の仮称で決まっていましたが、河田町の衰退を懸念する声から、最終的に若松河田の駅名で決着したといわれます。

都電時代からの建築物として、この付近でご紹介しておきたいのは、地下鉄の入口脇にある旧小笠原伯爵邸の建物です。日本では珍しい本格的なスパニッシュ建築で、竣工は昭和2年。大規模な修繕の後、5年ほど前からレストランとして使用されています。お店を予約して店内に入れば、室内の華麗な装飾や中庭、屋上庭園などを楽しめるでしょうが、外観だけでも緑のスペイン瓦や窓の格子など、見どころに溢れています。

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最終更新日時 2010.01.13 14:49:50
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2010.01.10

第395回 【都電の残像編(49)】 河田町(かわだちょう) 前編  (2) 
[ 新宿区 ]  

バス停データ
◆所在地:新宿区 ◆路線:都営バス[宿74]系統他

みなさん、こんにちは。

新宿駅前から牛込地区を横断して飯田橋へと抜けたかつての都電13系統は、戦前までは新宿区役所に近い角筈電停を起点とし、現在は遊歩道「四季の道」として整備されている専用軌道を使って東大久保方面へ向かっていました。戦後、11,12系統の新宿駅前電停が、駅東口から靖国通り上に移され、13系統も新宿駅前発着となりましたが、その際、運行経路が四谷三光町電停(現在の新宿5丁目交差点)経由に変更され、従来の専用軌道は、11,12系統の大久保車庫への回送線として使われるようになりました。戦災で焼失した新宿車庫が大久保車庫に統合されたことによる措置で、13系統は新宿駅前への乗り入れと引き換えに、専用軌道を明け渡した格好となりました。

現在では貴重な都電の廃線跡となった「四季の道」を抜け、歌舞伎町の裏手から新宿6丁目交差点(本ブログ開設時のご挨拶で触れた新田裏電停がここです)に出ると、その先の文化センター通りが、かつての13系統の専用軌道跡です。右手に見える都営住宅と新宿文化センター一帯が大久保車庫の跡地ですが、それらしき痕跡は皆無でしょう。そのまま直進すると、道幅は次第に狭くなり、やがて職安通りと合流すると、第285回「抜弁天」の項でご紹介した抜弁天交差点に出ます。ここには東大久保電停がありました。そして職安通りは緩やかな下り坂となって左へカーブし、余丁町バス停を過ぎると、間もなく地下鉄若松河田駅の入口が見えてきますが、ここが河田町電停の跡地で、現在は河田町バス停が立っています。

(次回へつづく)

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最終更新日時 2010.01.11 01:02:56
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2010.01.07

第394回 【都電の残像編(48)】 浅草橋(あさくさばし) 後編 
[ 中央区 ]  

(前回からのつづき)

往古の奥州街道は、後の日光東照宮への参詣道として整備され、日本橋を起点に浅草橋、蔵前、雷門、小塚原、千住大橋を経て千住宿、草加、越谷方面へと通じていました。日光街道と呼ばれる道筋ですが、江戸時代は日光道中と称する方が正しかったようです。

浅草橋南詰は、浅草口と呼ばれた江戸城外郭門の跡地で、寛永13年(1636)に桝形櫓が造営され、浅草見附として番士が置かれるようになりました。いわゆる江戸三六見附のうちでは、最も外側に位置した見附であり、当初は見附を出るとあたりは人家もまばらな淋しい場所だったといいます。明暦3年(1657)の江戸の大火の際は、現在の日本橋小伝馬町にあった牢屋敷の非常措置として囚人が仮釈放されましたが、浅草口へ押し寄せた囚人たちを番士が集団脱獄と勘違いして門を閉ざしてしまったことから、猛火に追われた市民が避難路を失い、神田川へ落ちるなどして2万人余りの死者を出したと伝えられます。現在は、橋の北詰西側に「浅草見附跡」の碑を見ることができます。

浅草橋では、かつての都電12系統の他、25、29系統が交差点を東西に直進、一方で国道6号(江戸通り)の方は22、31系統が南北に直進していましたが、この交差点には岩本町方向から蔵前方向へ曲るレールがあり、普段使われることは無かったものの、都心を周回する花電車の運行や、電車の回送などに使われたといいます。

12系統で浅草橋を過ぎると、次の電停は両国橋西詰の両国電停でした。両国というと、隅田川対岸の墨田区側の地名というイメージが強いですが、もともとは両国橋を挟んで東西両方に両国地名はあり、中央区側の両国は昭和46年の住居表示実施により、東日本橋と改称され消滅しました。

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最終更新日時 2010.01.07 23:50:29
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タグ:街道 , 見附 , 両国

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