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このブログでは「バス停地名学のすすめ」と題して、東京のバス停に残る失われた地名、懐かしい地名をピックアップしながら、実際に私が現地を訪ねて歩いた記録を、気ままに綴っています。 バス停地名学のすすめ [全467件]
みなさんこんにちは。 「バス停地名学のすすめ」へご訪問いただき、ありがとうございます。 相変わらずの休止状態で申し訳ございません。 過去記事でお楽しみいただければ幸いです。 尚、本ブログのリライト版として、ライブドア主催の「みちくさ学会」に 「バス停」カテゴリで寄稿しております。 よろしければ、そちらもご参照下さい。 また、こちらを休止中であるにもかかわらず、新たに都電の軌跡を訪ねて歩くブログを開設しています。 かつて都心を網羅した全41路線を、歩いて完乗してみようという試みです。 ご興味のある方は是非、ご参照下さい。 「歩いて完乗 懐かしの都電41路線散策記」 ついでながら、私の著書はこちらでご紹介しています。
みなさん、こんにちは。 ブログの更新が長期にわたり休止中となってしまい、誠に申し訳ありません。 諸事情により、再開までもうしばらくお待ちください。 尚、ライブドア社主催の「みちくさ学会」にて、私の連載を開始することとなりました。タイトルは本ブログと同じく「バス停地名学のすすめ」です。 本ブログの過去のアーカイブから厳選の上、再訪・リライトの上で掲載していきます。ぜひご覧ください。
(前回からのつづき)ここには古くから榎と槻の木が並んでいたことから、エンツキ(縁尽)と呼ばれて忌み嫌われ、嫁入りや婿入りの行列がこの下を通ると不縁になるといわれていました。寛延2年(1749)に八代将軍吉宗の嗣子家治に降嫁した閑院宮直仁親王の息女五十宮(いそのみや)の一行や、文化元年(1804)に十一代将軍家斉の世子家慶に降嫁した有栖川宮織仁親王の息女楽宮(さぎのみや)の一行は、縁切榎を避けて中山道西側を迂回する根村道から江戸へ入ったといわれ、文久元年(1861)に孝明天皇の妹和宮が十四代将軍家茂に降嫁した際は、縁切榎を菰で包み隠してしまったと伝えられます。また、女性がこの榎の樹皮を削って男性に煎じて飲ませると、男性から離縁されるという信仰も広まり、離縁の自由を持たない封建制度下の女性に支持されてきたともいわれます。 もとは街道西側にあったもので、初代の榎は明治17年の火災で焼失、二代目も伐られ、三代目から現在地に移り史跡として整備されたようです。奥に小さな祠がありますが、その手前には二代目の幹の表皮をコンクリートで固めた石碑が残されています。 旧道をさらに進むと、左手の交番の先に「本町にぎわい広場」という小公園がありますが、隅に江戸時代の櫓を模したような建物(倉庫?)が建ち、その扉の部分に『江戸名所図会』から「板橋宿」と「乗蓮寺」の2枚が掲げられています。乗蓮寺は板橋宿第一の名刹として知られた寺で、この先の仲宿商店街の遍照寺の少し先を国道側に入ったあたりにありましたが、都電廃止後の昭和48年、国道拡幅工事の際に板橋区赤塚5丁目へ移転し、現在では東京大仏の寺として知られています。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
バス停データ◆所在地:板橋区 ◆路線:国際興業バス[赤20]系統他 みなさん、こんにちは。 都電18系統の残像を辿り、国道17号をさらに南下すると、やがて環七通りと交差する大和町交差点に辿り着きますが、ここがかつての大和町電停跡地であり、現在も交差点の南側に国際興業バスの大和町バス停が立っています。環七通りの開通が、東京オリンピック直前の昭和39年だったため、電車開業時から廃止に至るまでの期間、電停周辺の景観の変遷には著しいものがあったと思われます。 交差点から環七通りを西へ少し歩くと、右手方向に富士見街道が分岐していきます。中山道の枝道として古くは練馬道とも呼ばれた古道で、川越街道の下練馬宿方面へと通じていました。地図でその道筋をおおよそ追いかけていくと、下練馬では大山への参詣道であった富士街道に通じていることから、中山道から大山、富士方面への往還の歴史をかすかに感じ取ることができます。 交差点の東側で国道と並行する商店街が、旧中山道の道筋です。坂町商店街と呼ばれる通りを歩いていくと、やがて緩やかな下り坂となりますが、ここは古くから岩の坂と呼ばれています。戦前は板橋宿の衰退によりスラム化の進んだ貧民窟として知られたようですが、現在は勿論その面影は一切見られません。そして、坂下左手の一画には、江戸時代から縁切榎と呼ばれてきた史跡が見えてきます。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)バス停先の交差点を右へ入ると、どこか懐かしい昔ながらの商店街が西へ続いています。イナリ通り商店街で、街灯に「霊験 水の鎮守さま 清水稲荷神社 参詣道」の文字が見えます。しばらく歩くと、右手にその清水稲荷の境内が見えてきます。 国道西側の清水稲荷周辺は、清水町ではなく宮本町になりますが、清水町一帯は、明治の中頃までは前野村と呼ばれたうちの一部で、村内5ヶ所の湧水から清水の地名が生じたといわれます。この清水稲荷も、古くはこの清水町の湧水の傍らに祀られたものと伝えられています。境内には推定樹齢500年ともいわれるイチョウの大木が数本見られるほか、農器具などを収蔵した小さな清水資料館もあります。 国道へ戻る途中、改めてイナリ通り商店街をゆっくりと見て歩くと、狭い通りに面した150メートルほどの小さな商店街ですが、そこそこ人通りも多く、地域に根付いた活気のある商店街であることに気付かされます。月に一度の朝市や初夏のほおずき市などが恒例のようで、駅前という立地ではありませんが、各店舗が呼吸を合わせて町おこしに取り組んでいる姿勢が、私のような散歩者にもひしひしと伝わってくる思いがします。ちょうど清水稲荷の向かい側には、「コン太村」の看板を掲げた駄菓子店があり、懐かしいコインゲーム機などを集めた駄菓子博物館として、都電時代にも通じる昭和の香りをぷんぷんと漂わせています。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
バス停データ◆所在地:板橋区 ◆路線:国際興業バス[池20]系統他 みなさん、こんにちは。 かつての都電18系統の残像を追いかけ、前回ご紹介の蓮沼町交差点から国道17号をさらに南へ歩き進むと、やがて右手から首都高速5号線の高架が近づき、国道の上空をすっぽりと覆い隠すようになります。この先、西巣鴨まで、国道は首都高速の屋根の下が続きます。 その首都高速の高架がちょうど国道上に覆いかぶさる位置に、小さな交番があり、その左手から細い通りが国道に並行するように分岐していきますが、これが旧中山道の道筋になります。ここから旧板橋宿や庚申塚を経てJR巣鴨駅前まで、およそ5キロに及ぶ長い旧道区間が続いています。その大半は商店街で人通りも多く、旧品川宿を中心とした東海道の旧道区間同様、散策を楽しむ人の姿も多く見受けられます。 早速旧道を歩いてみたい気持ちをぐっと押さえ、もうしばらく我慢して首都高速下の国道を歩いていくと、間もなく国際興業バスの清水町バス停が見え、そのすぐ先の交差点が、かつての清水町電停の跡地となります。清水町は国道東側の町名です。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)蓮沼の地名は、多摩川に近い大田区西蒲田にも見られますが、大きな川が永年に渡り氾濫を繰り返したことで流路が変わり、その跡地が沼となり、ハスが繁茂した様子が地名となったものと考えるのが自然かと思われます。蓮沼の集落がもともとは荒川右岸の低地にあり、氾濫を避けて高台のこの地に移った経緯は、前回ご紹介した南蔵院や氷川神社の移転から想定される通りです。 都営地下鉄三田線の駅名が蓮沼ではなく本蓮沼となったのは、大田区の東急蓮沼駅との区別のためでしょうか。板橋区成立以前は、志村の大字として、この付近を本蓮沼と称していましたが、これは荒川右岸からの移転により村が低地と高台の二ヶ所になり、低地側の一部が上蓮沼村として独立したのに対し、残りを本蓮沼村としたことに起因しています。昭和7年の板橋区起立後は、本蓮沼のうちの高台部が志村本蓮沼町となり、同36年から現在の蓮沼町のかたちになっています。本蓮沼駅の開業はその後の昭和43年ですから、町名としては既に消滅していた本蓮沼の名を、地下鉄の駅名が復活させた格好にもなっています。 因みに、都営地下鉄三田線にはもうひとつ、似たような駅名で蓮根駅があります。こちらは前述の上蓮沼村と根葉村が合併して蓮根村となったことに由来しています。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
バス停データ◆所在地:板橋区 ◆路線:国際興業バス[池20]系統他 みなさん、こんにちは。 前回ご紹介した、かつての都電18系統、小豆沢電停跡地から国道17号をさらに南へ歩くと、間もなく左手にしだれ桜の名所として知られる南蔵院が見えてきます。もともとは荒川右岸の低地にあり、八代将軍吉宗が鷹狩りに訪れる際の休憩所にもなっていた由緒を持つ寺院ですが、度重なる川の氾濫を避け、享保9年(1724)に高台のこの地に移りました。 その南側には、旧蓮沼村の鎮守である氷川神社があります。こちらも南蔵院とほぼ同時期に、荒川の氾濫被害からこの地に移転しています。これらの動きは、おそらく村そのものが川沿いから高台へと移転したことを物語っているのでしょう。氷川社は氾濫の度に社地を転々としてきたようで、「十度の宮」の俗称があったと伝えられます。 やがて国道17号は、都営地下鉄三田線本蓮沼駅のある蓮沼町交差点に辿り着きますが、ここがかつての蓮沼町電停の跡地であり、現在も国際興業バスの蓮沼町バス停が立っています。駅の入口がすぐ目の前であるにもかかわらず、バス停名が都電時代から蓮沼町のまま不変な姿に、私のような散歩者は拍手を送りたい気持ちになります。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)かつての都電18系統を辿り、坂上交差点から国道17号を板橋方面へ歩き始めると、すぐに志村のランドマークでもある志村一里塚が見えてきます。 一里塚の跡地は全国でも多数確認されていますが、大半は明治期以降の交通事情、特に主要街道の道路拡幅によりその姿を消してしまっている中、この志村一里塚は国道17号の整備に合わせて復元が施され、道の両側にほぼ完全な姿で残された全国でも珍しい事例となっています。板橋宿の入口、平尾の一里塚が日本橋から二里目、ここ志村は三里目となります。東側の塚は、国道の歩道がわざわざ塚を迂回するような形になっており、西側の塚に「国指定史跡 志村一里塚」の碑が立っています。東側には塚に隣接して籠や箒といった竹細工による日用品を扱う古い商家があり、この組み合わせは都電時代から変らぬ景観と思われますが、これらは「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選出されているとのこと。殺伐とした国道沿いにあって、オアシスのような一里塚周辺の景観は、街道の歴史を後世に伝える意味でも、貴重な存在となっています。 一里塚を過ぎ、右手に凸版印刷の工場を見ながら、その角の交差点を右へ入ると、工場裏手の台地下に大きな湧水池のある見次公園があります。「見次」とは変わった地名ですが、古くに「貢(みつぎ)」、すなわち年貢の集積地だったことに由来する地名という説があります。この付近の国道17号東側には小豆沢の地名がありますが、諸説ある小豆沢の地名由来のひとつに、平将門が貢物の小豆を船で搬送中に難破し、この付近に小豆が流れ着いたとする説があるそうで、「貢」つながりの関連地名として、興味がそそられます。 かつての都電18系統には、凸版工場の少し先に、小豆沢町電停があり、現在もその跡地には、国際興業バスの小豆沢バス停が立っています。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)旧中山道は、これより清水坂の急な下りにさしかかります。江戸を出発した中山道が、武蔵野台地から荒川南岸の低地へ駆け下りる難所として知られたこの坂は、現在でもS字にカーブした急坂で、近くの大善寺の薬師如来を八代将軍吉宗が清水薬師と唱えさせたことが清水の地名、坂名の由来となっていると伝えられます。古くは志村城の千葉隠岐守信胤が坂の補修をしたことから隠岐坂の名があり、現在は国道東側の総泉寺境内に見ることのできる子育地蔵尊が、もとはこの坂沿いにあったことから、地蔵坂の名もありました。 坂が左手に大きくカーブするあたりは、旧中山道の江戸から京都までの道中で、唯一富士山を右に見たといわれる場所で、俗に右富士(京都から江戸へ向かう場合は左富士)と呼ばれた名所でもありました。このままもうしばらく旧道を歩き進めたい衝動に駆られますが、この先は都電41系統をご紹介する機会に改めて訪ねることとし、今回は坂上交差点へ戻ります。 改めて交差点から坂下方向を見通すと、右手に見える大きな寺院が、総泉寺です。江戸時代、芝の青松寺、高輪の泉岳寺とともに江戸三箇寺のひとつと数えられた総泉寺は、康正2年(1456)に橋場(現在の台東区橋場)に創建されました。幕府からの厚い庇護を受け大きな勢力を持つに至りますが、数度の火災と震災により伽藍を失った後、昭和4年の区画整理で志村のこの地への移転となり、現在山門の奥に見ることのできる大きな本堂は、近年改築されたばかりの新しい建物となっています。境内左手の地蔵堂に安置されている子育地蔵尊が、先ほどご紹介の通り、かつて旧道の清水坂にあったものになります。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。 |一覧| |