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このブログでは「バス停地名学のすすめ」と題して、東京のバス停に残る失われた地名、懐かしい地名をピックアップしながら、実際に私が現地を訪ねて歩いた記録を、気ままに綴っています。 バス停地名学のすすめ [全418件]
バス停データ◆所在地:中央区 ◆路線:都営バス[都04]系統他 みなさん、こんにちは。 かつての都電8系統は、天現寺橋から古川沿いを東へ進み、赤羽橋から桜田通りに入ると、神谷町、虎ノ門と北進し、桜田門に突き当たると右折。日比谷、銀座4丁目を経て三原橋を過ぎると、間もなく終点の築地に到着しました。晴海通り上の京橋郵便局前あたりが電停跡地で、現在は都営バスの築地バス停が立っています。築地といえば地下鉄日比谷線の築地駅がありますが、築地バス停には手前の東銀座駅が近く、反対に築地駅へはひとつ先の築地3丁目バス停が便利です。これらの状況は、バス停が都電時代の電停名、及び位置を忠実に承継している証といってもいいでしょう。 日比谷方面からは、8系統の他に渋谷駅前からの9系統、新宿駅からの11系統がありましたが、8系統は築地から現在は平成通りと呼ばれる狭い通りへ左折し、茅場町方面へと向かっていました。11系統は勝鬨橋で隅田川を越え、月島方面へ直進しました。また、都電の第一次撤去後の昭和42年12月からは9系統の運行区間が変わり、11系統同様に晴海通りを直進し新佃島へと向かうようになりました。そして茅場町方面へは、錦糸町駅前行きの36系統が築地で折り返していました。 晴海通りを東へ歩くと、すぐに新大橋通りと交わる築地4丁目交差点があります。左手は築地本願寺、右手は築地市場に続く場外市場で、築地らしさの中心に位置する交差点ですが、都電との関係では、かつてここから築地市場へと伸びていた引込み線にの存在を忘れてはならないでしょう。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)渋谷橋交差点をぐるりとひと回りしている歩道橋に上り、都電在りし日の交差点の姿を思い描きながら歩いていると、都営バスに交じって、明治通りから駒沢通りへと曲っていく東急バスの姿も目に入ってきます。かつての玉電の運行区間でもあり、渋谷橋を経由して中目黒方面へ東急バスが走る姿は決して不思議ではありませんが、渋谷橋バス停は都営バスのみの停車で、東急バスは素通りしてしまうのが少々残念ではあります。 交差点から恵比寿駅方向に駒沢通りを少し歩くと、すぐに渋谷川を渡す渋谷橋があります。渋谷川(古川上流部の別称)については、本ブログでも何度かご紹介済みですが、渋谷駅の南側で地上に顔を出した流路は、東横線の高架と明治通りの間を南下し、氷川橋、上智橋、比丘橋、庚申橋を経て、渋谷橋へと辿り着き、その先は恵比寿橋、新橋、山下橋と続いて、天現寺橋に至ります。 川そのものの景観は、コンクリートに固められた典型的な都市河川の様相ですが、神田川や目黒川が護岸改修で直線的な流路に造り変えられているのと比べると、渋谷橋前後の渋谷川には小刻みな蛇行が残されており、無機質な眺めの中にも、川らしい雰囲気がほんの少し残されているように感じられます。 渋谷橋から明治通りに入ったかつての都電8系統は、渋谷駅前からの34系統と併走し、四谷三丁目からの7系統と合流する天現寺橋へと向かいました。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
バス停データ◆所在地:渋谷区 ◆路線:都営バス[都06]系統他 みなさん、こんにちは。 中目黒を起点としたかつての都電8系統は、新宿〜荻窪間の14系統(杉並線)を除けば、山の手地区では唯一山手線の外側に飛び出た路線ということになりますが、この路線が玉川電鉄(後の東急電鉄)により敷設された歴史を考えると、それも頷けることかもしれません。 玉電と都電の関係を簡単にまとめておくと、まず大正10年に玉電が渋谷〜渋谷橋間を開業。次いで同13年に渋谷橋〜天現寺橋間が開業し、天現寺線となりました。そして昭和2年に渋谷橋〜中目黒間が開業し、中目黒線となりました。渋谷では、玉電の本線ともいえる玉川線(後の新玉川線を経て、現在の田園都市線の前身)とつながっていましたが、昭和12年に玉電渋谷駅が当時建設中だった玉電ビルの二階に移転した為、天現寺線と中目黒線は玉電本線から線路が分離された状態となってしまいました。その後、都電(当時は市電)渋谷駅前電停が天現寺線渋谷駅と接続してターミナルを形成するようになり、あたかも都電の一部のような格好となりましたが、昭和13年からは運行が東京市に委託され、同23年に正式に東京都へ譲渡されると、両線は天現寺橋から古川橋方面へ乗り入れるようになり、中目黒〜築地間の8系統、渋谷駅前〜金杉橋間の34系統として生まれ変わりました。 中目黒電停は、現在の東横線中目黒駅とはやや離れ、駒沢通りと山手通りの交差点に近い駒沢通り上にありました。そこから駒沢通りを東へ進み、恵比寿駅前を通り過ぎ、明治通り上の天現寺線との合流点となる渋谷橋交差点が、渋谷橋電停の跡地です。現在もこの場所には、都営バスの渋谷橋バス停が立っています。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
みなさん、こんにちは。今回は、JR大塚駅に近い文京区南大塚の大塚南公園に保存されている、6162号をご紹介します。 場所は表通りから少し入った奥まったところなので、初めての方にはわかりにくいかもしれませんが、その立地と同様、電車は立派な屋根とフェンスで全体を囲まれ、なんとも窮屈な状態で保存されています。いたずら防止のためには止むを得ないのでしょうが、鉄道車両の静態保存のあり方について、改めて考えさせられる光景です。 6162号は、錦糸堀営業所に所属した昭和46年3月の廃車で、同年5月からこの公園に置かれているので、既に保存期間も38年という歳月が経過しています。フェンスに守られているおかげで極端な損傷は見られませんが、全体的にくすんだ様子見見えるのは、やはり長い経過年数によるものでしょう。(平成元年頃に一度改装が行われているそうです) 因みに、電車の帯がワンマン化を示す青色になっていますが、本来の6000形は赤帯が正解です。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)青山霊園一帯は、江戸期の青山氏の屋敷地跡で、明治7年から市民向けの共葬地となり、後の青山霊園の前身となりました。国内における公営墓地の先駆けでもあります。尾崎紅葉、国木田独歩、斎藤茂吉、北里柴三郎、乃木希典、大久保利通など、多数の文人や学者、政治家らの墓石も並んでいます。忠犬ハチ公の墓もここにあります。 バス停の東側、青山霊園に隣接する六本木7丁目一帯は、鉄条網で囲われた米軍施設となっています。六本木に近い都心の中心部にこのような敷地があることはあまり知られていないかもしれませんが、ヘリポートや星条旗新聞社の建物などがあります。二・二六事件で知られる旧陸軍麻布三連隊の跡地の一部で、戦後の米軍による接収後、その一部がいまだに返還されていないというのが現状のようです。 再びバス停に戻ります。ここが西麻布や六本木に近い立地とは思えないほどの静けさの原因は、言うまでもなく青山霊園と米軍施設に挟まれた立地故のことですが、道路すらなかった都電の専用軌道時代の静けさはどれほどのものだったでしょうか。そんなことを思いながら周囲を見回していると、「仏蘭西料理 龍土軒」の大きな看板が目に入ってきます。明治33年開業の東京で最も古いフランス料理店で、明治期から大正期にかけては高級軍人や文化人のサロンとして知られ、田山花袋や国木田独歩らの自然主義作家の集会場ともなり、「自然主義は龍土軒の灰皿の中から生れた」といわれることもあったようです。残念ながら、現在は建替え工事による休業中で、看板はあってもお店は存在しませんのでご注意下さい。 ************************************ 本ブログで過去にご紹介した以下のバス停も、旧都電7系統の電停名を継承しているバス停です。関心のある方は是非ご参照下さい。 光林寺前 広尾橋 権田原 左門町 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
バス停データ◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[品97]系統 みなさん、こんにちは。 都電荒川線が廃止を免れた理由のひとつに、専用軌道の区間が多かったこと、すなわち、渋滞の原因とならず、バスへの置き換えが難しかったことが挙げられますが、後に荒川線となった27、32系統に限らず、専用軌道区間を持つ都電の路線は他にも意外と多く、天現寺橋で明治通りから北へ進行方向を変えたかつての7系統の場合、その先の広尾橋から青山一丁目までの区間が、郊外電車のようなのどかな景観を持つ専用軌道区間となっていました。 現在は交通量の多い外苑西通りとなり、このルートを辿る都営バス[品97]系統の車窓からも、専用軌道時代の景観を思い浮かべるのは至難の技といえるかもしれません。西麻布交差点(かつての霞町電停)で六本木通りを越えると、左手には広大な青山霊園の緑が広がりますが、このあたりの景観だけは、霊園ということもあり、都電時代とさほど大きな変化は見られないのではないでしょうか。そんな青山霊園の南端入口付近にあったのが墓地下電停で、そのストレートな命名にいかにも時代を感じさせますが、現在もその場所には[品97]系統のバス停があり、都電時代の電停名がしっかりと守られています。 バスを降りると、桜並木で知られる霊園中央の目抜き通りが、目の前の霊園入口から一直線に北へと伸びています。この通りは緩やかな上り坂となっていますが、台地上の斜面に展開する青山霊園の南端部は、地形的に文字通り「墓地」の「下」であり、かつての専用軌道が台地に挟まれた谷地に沿って敷かれていたことを、改めて実感することができます。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)交差点の北西角側は、高層の都営広尾五丁目アパートが聳えていますが、この場所はかつての都電広尾車庫の跡地です。大正7年の開設で、7、8系統と、33、34系統を担当していました。車庫名と近接する電停名が全く異なる事例は、都電ではここだけのようで、各系統からの入庫電車が系統番号を掲示しないという慣習があったのも、広尾だけといいます。天現寺橋からすべての都電が消えた昭和44年10月、車庫も廃止となりました。 都営アパートの西側には、これも車庫跡地の一部である広尾公園がありますが、ここに渋谷区教育委員会による「都電車庫跡」の説明板がひっそりと立っています。車庫跡地でこうしたものがあるのも、ここだけではないでしょうか。説明を読むと「恵比寿方面への始発点でもありました」の一文がありますが、これは戦時中の昭和19年5月まで運転されていた天現寺橋〜恵比寿長者丸間の支線を指すもので、簡易な説明文がこの支線にまで触れていることに驚かされます。当時は専用軌道で、途中に豊沢、白金三光町、伊達跡の電停があったといいますが、現在は大半が外苑西通りとなり、かつての伊達跡から恵比寿長者丸付近に、廃線跡らしき小径がかすかに残る区間があるようです。 日本では定着しませんでしたが、交通量の多い交差点の中心に円形の台を置き、その周囲をぐるぐると車が回るロータリー方式が、都電時代の一時期、この天現寺橋交差点で採用されていました。都電はどうしたのだろうと、古い地図を調べてみると、7系統はロータリー手前で明治通りから右折、渋谷橋方面への電車のみが、ロータリーの中心部をくり抜くようにして直進していたようです。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
バス停データ◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[品97]系統他 みなさん、こんにちは。 品川駅前から四谷3丁目までを結んだかつての都電7系統は、泉岳寺から伊皿子を経て古川橋に出ると、古川に沿って西へ進み、やがて渋谷方面との分岐点となる天現寺橋電停に到着しました。明治通りと外苑西通りとの交差点で、現在も電停名を受け継ぐ都営のバス停が交差点の周囲に立っていますが、ちょうど港区と渋谷区の境界となる場所でもあり、明治通り上のバス停は港区側に、外苑西通り上のバス停は渋谷区側にそれぞれ属しています。 天現寺橋とは、交差点の南側で古川(渋谷川)を渡す外苑西通りの橋名です。かつてはここで青山方面から南下してきた笄(こうがい)川が合流し、天現寺橋はその笄川に架かる橋であったともいわれますが、笄川の暗渠により、いつの頃からか古川の橋という位置付けで定着しています。古川は元禄11年(1698)の富士見御殿造営の際に川幅拡張が行われましたが、その終点がこの天現寺橋で、故に堀留橋の別名もありました。交差点の南西側に設けられた橋の欄干から古川を覗き込むと、笄川跡と思われる下水が外苑西通り側から合流している様子を見ることができます。笄川については、第239回「広尾橋」の項でも触れましたので、ぜひ参照下さい。 橋名の由来となった天現寺は、交差点の北西角側にあります。享保4年(1719)の創建で、聖徳太子の作ともいわれる毘沙門天を祀っています。境内には孝光天王御陵の石燈籠や芭蕉の句碑があることで知られますが、現在は境内全域が工事中で、立ち寄るのも憚れる様子です。 (次回へつづく) ↑↑↑ブログランキング参加中です。
みなさん、こんにちは。今回は、北区の飛鳥山公園に保存されている、6080号をご紹介します。 昭和22年にデビューした都電6000形は、同27年までに290両が製造され、相次ぐ都電の廃止とともに大半が廃車となりましたが、荒川線存続時に生き残った13両が荒川車庫に集められ、朝夕の増発対応などの運用で活躍していました。 その13両も、荒川線のワンマン化により1両(6152号)を残して廃車となりますが、北区に譲渡された6080号は、飛鳥山公園に静態保存され、子供たちの歓声に包まれる公園のシンボルとして長らく親しまれてきました。雨ざらしの保存で、著しく損傷した姿が痛々しくもありましたが、平成17年に大掛かりな整備が行われ、現在はすっかり化粧直しのされた美しい車体に甦っています。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。
(前回からのつづき)永代橋に立つと、永井荷風が『日和下駄』に記したこんな記述を自然と思い出します。 「荷船の帆柱と工場の煙筒の叢(むらが)り立った大川口の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後とも案外長く或一派の詩人を悦ばす事が出来るかも知れぬ」 ここでいう「大川口」が、永代橋の位置にあたります。 「全く石川島の工場を後にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船を見ればおのずと特種の詩情が催される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐なる彼の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口の風景に一致している」 永代橋を隅田川の「河口」とすることに、現在は少し違和感があるかもしれませんが、佃島周辺の埋め立てが進む以前は、ここが隅田川の河口「大川口」であり、永代橋は隅田川の第一橋梁としての地位を長く保っていました。荷風のいう「今日」は大正初年頃のことですから、それからほぼ一世紀を経た現在、永代橋からの眺めは激変に次ぐ激変といっても過言ではないでしょう。都電撤去の後、橋からの景観の主役ともいえた「石川島の工場」は昭和50年代にその姿を消し、跡地は東京のウォーターフロント開発の先駆けとして高層マンションの林立する景観に生まれ変わりました。夜、青白くライトアップされた永代橋とともに眺めるその幻想的な夜景は、「水の都」東京の新しい表情ともなっています。 ************************************** 本ブログで過去にご紹介した以下のバス停も、旧都電5系統の電停名を継承しているバス停です。関心のある方は是非ご参照下さい。 桜橋 ↑↑↑ブログランキング参加中です。 |一覧| |