第424回 【都電の残像編(78)】 大和町(やまとちょう) 後編
(前回からのつづき)ここには古くから榎と槻の木が並んでいたことから、エンツキ(縁尽)と呼ばれて忌み嫌われ、嫁入りや婿入りの行列がこの下を通ると不縁になるといわれていました。寛延2年(1749)に八代将軍吉宗の嗣子家治に降嫁した閑院宮直仁親王の息女五十宮(いそのみや)の一行や、文化元年(1804)に十一代将軍家斉の世子家慶に降嫁した有栖川宮織仁親王の息女楽宮(さぎのみや)の一行は、縁切榎を避けて中山道西側を迂回する根村道から江戸へ入ったといわれ、文久元年(1861)に孝明天皇の妹和宮が十四代将軍家茂に降嫁した際は、縁切榎を菰で包み隠してしまったと伝えられます。また、女性がこの榎の樹皮を削って男性に煎じて飲ませると、男性から離縁されるという信仰も広まり、離縁の自由を持たない封建制度下の女性に支持されてきたともいわれます。もとは街道西側にあったもので、初代の榎は明治17年の火災で焼失、二代目も伐られ、三代目から現在地に移り史跡として整備されたようです。奥に小さな祠がありますが、その手前には二代目の幹の表皮をコンクリートで固めた石碑が残されています。旧道をさらに進むと、左手の交番の先に「本町にぎわい広場」という小公園がありますが、隅に江戸時代の櫓を模したような建物(倉庫?)が建ち、その扉の部分に『江戸名所図会』から「板橋宿」と「乗蓮寺」の2枚が掲げられています。乗蓮寺は板橋宿第一の名刹として知られた寺で、この先の仲宿商店街の遍照寺の少し先を国道側に入ったあたりにありましたが、都電廃止後の昭和48年、国道拡幅工事の際に板橋区赤塚5丁目へ移転し、現在では東京大仏の寺として知られています。↑↑↑ブログランキング参加中です。