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まろ0301

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2012.08.02
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カテゴリ:カテゴリ未分類

 2008年8月2日、シアトル子供病院の医師ダグラス・ディクマが、米国科学学会年次総会において、アシュリー・ケースについて講演を行う。

 

 以下、『アシュリー事件』児玉真美 生活書院 を紹介したい。

 著者は、重症の心身障害児を抱えている母として、2007年1月5日にCNNニュースによってこの事件を知り、深刻な疑問を抱えることとなる。

 愛情からやったことだからOKなのか。

 親が決めたことだからOKなのか。

 未成年だから親が決めてOKなのか。

 重症障害児だからOKなのか。

 知的障害があるからOKなのか。

 全介助だからOKなのか。

 「分からない。いくら記事を読んでも、論争を覗いても、納得できない。ザワザワが強くなって」いった著者は、その日からずっとこの事件に関わることとなる。

 

 「アシュリー事件」とは、重症重複障害のある当時6歳のアシュリーと呼ばれる女の子に対して、両親の希望により、シアトル子供病院の医師が、

 1、エストロゲン大量投与療法によって最終身長を制限すること、

 2、子宮摘出術により生理と生理痛を取り除くこと、

 3、初期の乳房芽の摘出により、乳房の生育を制限すること、の三つの措置を施したことの適否をめぐる論争を指している。

 病院側に措置を申し入れた両親は2007年1月2日にブログを立ち上げて、自らの選択について以下のように述べている。

 「この療法について広く見られる基本的な誤解は、介護者の便宜を意図したものだというものです。そうではなくて、主な目的はアシュリーのQOLを改善することです。アシュリーの最も大きな課題は不快と退屈なのですから。この中心的な課題に比べると、この議論の中のそれ以外の問題は大したものではありません。『アシュリー療法』は、ずばりこれらの課題に対応するもので、それによってこの二つの課題が大きく緩和され、アシュリーに生涯にわたってメリットをもたらすと我々は強く信じています。

 ほとんどの人が考えているのとは異なり『アシュリー療法』をやろうというのは難しい決断ではありませんでした。生理痛がなくて、発達しきった大きな乳房からくる不快がなくて、常に横になっているのによりふさわしく、移動もさせてもらいやすい、小さくて軽い身体の方がアシュリーには肉体的に遥かに快適でしょう。

 アシュリーの体が小さく軽いことによって、家族のイベントや行事にも参加させやすくなりますし、そうした機会は、アシュリーに必要な安楽、親密さ、安心感と愛情を与えてくれるものです。たとえば食事の時間、ドライブ、触れてもらったり、抱いて甘えさせてもらったりといったことなど。赤ちゃんというのはだいたい、眼を覚ましている時には家族のいる同じ部屋においてもらって、家族のすることを見たり聞いたりしてはそれに注意を引かれ、それを楽しんでいます。このように、アシュリーのニーズは全て赤ちゃんと同じニーズです。遊んでもらったり、家族に関わってもらう事も必要だし、またアシュリーは、家族の声を聞くと落ち着きます。さらに、アシュリーの精神年齢を考えると、完全に成熟した女性の身体より、9歳半の身体の方がふさわしいし、より尊厳があるのです」p42~3

 子宮摘出と、乳房芽摘出、身長抑制とは重症重複障害児には不必要なものとして合理化される。

 「私たちにとっては、一人前の大きな胸をした女性が、自分では何もできない寝たきりで、頭の中は生後3か月の赤ちゃんなのに、さらに成長していくなんて、グロテスクだとしか思えなかったんです」(p50)

 QOLとは「生命の質」という意味である。現在使用している『倫理』(東京書籍)の該当部分を引用する。

 「また、延命治療や現代の医学では治癒困難な病気の治療のあり方に関して、残された時間の生き方自体を大切にしようとする生命の質(QOL quality of life)という考え方が話題になるようになり、これまでの、人間の生命は神聖で絶対的なものであるとする生命の尊厳(SOL sanctity of life)との間で深刻なディレンマを生み出している。安楽死や尊厳死の発想はQOLを抜きにしてはありえない。しかし、生命の質を問う発想は、同時に生きるに値しない生命を想定させてしまう。出生前診断によって胎児に重度の疾病・疾患が発見された場合、中絶するような事態が起きており、障害者差別を引き起こす新たな優生学につながるものとして批判もある。

 生と死の課題を考える際には、医療保険や社会福祉制度のあり方が当然視野に入ってくる。その際に経済的合理性だけが追求されれば、高齢者や重度の障害者が生きていることを気がねしてしまうような結果をまねきかねない。QOLは、生命の質とともに生活の質という意味も持つ。障害者や高齢者の生活の質の向上を支援するノーマライゼーションの視点が忘れられてはならない」(p178)

 「アシュリー療法」を批判する人々への反批判を紹介しよう。

 「人間の乳児よりも知的機能の高い犬や猫にだって我々は尊厳を認めないのだから、尊厳をもちだして重症児の最善の利益にかなう治療を邪魔立てするな」ピーター・シンガー(動物の権利擁護、先鋭的な功利主義、障害のある新生児の安楽死擁護論で有名な生命倫理学者)

 また同じように重症重複障害児の娘ケイティ・ソープを育てているアリソン・ソープの発言。彼女はアシュリーのケースを耳にしたときに、うちの娘にも同じことをやってほしい、と発言している。

 「ケイティと寝ていると夜中に20回も起きなくちゃいけなくて、次の朝になってべットメイクしようと思ったらそこらじゅうウンチだらけで、頭はがんがんするし、メリッサ(ケイティの妹)はママ、ママあたしのお弁当はってうるさく言うし、そういう日に、ああもう嫌だこんなのって思います。」

 「障害児の世話をするというのは終身刑を務めているようなものです。でも私はケイティに無条件の愛を感じています、ケイティのいない生活なんて考えられません。自分のことなんかどうでもいい。彼女が家庭の中心で、ケイティのニーズが最優先なのです」

 「(アシュリーと同じようにしてほしいという発言に対しての)唯一の反論は障害者団体からのものですが、私があの人たちに言いたいのは、『じゃあ、うちに来て私と一週間過ごしてみてよ。私の身になってみなさいよ』ということです」(p134~5)

 著者は記している。

 「人が誰かを『どうせ障害者だから』『どうせ黒人だから』『貧乏人のくせに』『女のくせに』と見下し、そのいやしい欲求を言動として無反省に解き放ってしまう時、その人は人としての自分の品性をかなぐりすて,ゲスになっているのだと思う。

 重症障害児に認められてしまったら、そこで止まらずに、もっと多くの障害児・者に適用されていく『すべり坂』の懸念はもちろん個々の障害児・者への現実のリスクについての非常にリアルな懸念である。しかしもっと恐ろしい「すべり坂」は、そんな風に社会の多くの人がアシュリーの父親やディクマらの論のに潜む『どうせ』を共有していくことによって、社会の価値意識そのものが変容していくことであり、それによって人類全体のヒューマニティが損なわれていくことだ。人々の心が、人の身体や尊厳、ひいては『いのち』に対する畏怖の念や敬意の感覚を鈍らせて、人としての心の感度を低下させていく。もっともおそろしい『すべり坂』はそこにこそ潜んでいるのではないか」(p159)

 P206以降の「アシュリー事件の周辺」は、著者の思いが決して杞憂ではないことを示す例が挙げられている。

 その中には、「社会的コスト論」「植物人間状態になった時に本人の意思表示カードさえあれば臓器提供は可能ではないか」といった主張も見られる。

 かなり以前に、兵庫県選出のある議員が「老人への福祉は枯れ木に水をやるようなものだ」と発言して物議をかもしたことがある。ご当人が高齢であり、いつまでも議員の椅子にしがみつくという醜態を演じていたから余計に印象に残っている。

 最後に著者は「親が一番の敵」という日本の障害者運動の中で生まれてきた言葉についての考察を行っている。

 ここで著者は最初に疑問として提示されている、「愛情からやったことだからOKなのか」「親が決めたことだからOKなのか」という疑問に立ちかえっている。「家族介護が一番」と親の愛を賞賛するマスコミと「世論」。

 著者は、重症障害児の介護に長年当たってきた父親の

 「あなたたちがいままで私たち親子を助けてくれたことなど一度もない。そんな人にエラソーに私たちを批判する資格などない。私はどんなに歳をとっても絶対にこの子は施設なんかには入れない。親はそれだけのものを背負っているんだ。一緒に背負うつもりのないオマエらは、黙ってすっこんでいろ!」

という言葉から、別のメッセージを読み取ろうとしている。それは「親たちの声なきSOS」である。

 家族介護が「親の愛」として美化され、一家心中でも起きると「なぜ一人で抱え込んだのか」というマスコミ。

 「人間は社会的存在である」というアリストテレスの言葉がいまさらながらに心に浮かんでくる。子育ては人類社会存続の中核となる営みであるという点について異論がないのであれば、その社会の持っている資源を最優先で注ぎ込むことに力を注がねばならない。

 ヒトというものを自立した「個」として、とらえてきた結果、「自己責任」という言葉が生まれ、その言葉が無限定に使用されるような、ろくでもない社会に私たちは生きている。

 「70歳以上の人間はとっとと死んでくれ」という法案が通りました・・・というブラックユーモア満載の小説が出版されたと聞いている。

 カントの言葉を引く。

 「君の人格、およびあらゆる他のものの人格における人間性を常に同時に目的として取り扱い、決して単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ」。

 人間は「人材」ではない。

 






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Last updated  2012.08.02 16:31:39
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まろ0301@ Re[1]:ドラマ「舟を編む」(03/27) maki5417さんへ 正社員二人というのは、…
maki5417@ Re:ドラマ「舟を編む」(03/27) 私も見ています。 キャスティングを見てど…
まろ0301@ Re[1]:ドラマ「舟を編む」(03/27) 嫌好法師さんへ 「なんて」の語釈。 […
嫌好法師@ Re:ドラマ「舟を編む」(03/27) ある人から勧められ私も今ハマっています…
まろ0301@ Re[1]:大二病なのか?(03/20) maki5417さんへ 確かに「詳細につきまし…

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