『蟲(むし)』見慣れた動植物とは違う、時にヒトに妖しき影響を及ぼすもの。
蟲師(むしし)は、それらを調査し在るべき様を示す。
ヒトと蟲の世を繋ぐ者、蟲師ギンコの旅の物語。
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蟲師 続章 あらすじまとめ
★蟲師1~26話 特別篇は→
蟲師 あらすじまとめ
蟲師 続章 第12話「香る闇」
夜、ふと花の匂いを嗅ぐと何かを思い出しそうになる。でもいつも思い出せない。懐かしいような、恐ろしいような何かを。
ある夜、雨に降られたギンコがカオルの家をたずねる。夫・カオル、妻・郁(いく) と幼い娘の3人家族。ギンコが仕事は蟲師だと話し、何か具合の悪いところや奇妙なことでもあれば役に立てるかもしれないと言うと、うちはみんな丈夫なことだけがとりえで、困ったことと言えば働いても働いても楽にならないことくらい。旅をしているなら、よその土地の話を聞かせてくれ、もう長いことこの里から出ていないのでなとカオルは言った。
よく朝、出発するギンコに、平凡に暮らしてきたから、いろいろ変わった話が聞けて面白かったとカオル。ギンコは何事もないのが一番いいさと言った。
時は流れた。娘は成長し嫁に行き、夫婦も年をとった。ある夜の帰り道、遅くなってしまったから早く帰らないと郁が心配するなとカオルが思いながら歩いていると花の匂いがした。まただ、また何か大事なことを忘れているような気がする。洞を見つけた。こんな洞、あったかな、誰かが掘ったのか。花の匂いは洞の中からだった。
花の匂いがしているのなら、どこかに出られるのか。この方向なら里への近道かもしれない。洞の中に入った。中を進むと花の匂いでむせ返るようだった。いったい何だったろう。何を忘れてしまっているのだろう。そう確か遠い昔のことだ。
母がお茶が入ったわよとカオル(少年)を呼ぶ。父が賃上げを要求する従業員の蔵人に、それならもっとましな酒を造ってみろと怒っている。母はあなたは気にしなくていいのよと言った。カオルと同じ年頃の丁稚がいた。父の大事な花瓶を割ってしまったカオルはその子がやったと嘘をついた。
やってませんと言う丁稚。父はカオルが見たといっている、嘘をつくなと言い、謝れないなら出て行けと告げた。その夜、カオルは丁稚が蔵のほうから出て来たのを見た。カオルを睨むと去って行った。翌朝、蔵の酒の栓が全部抜かれていることがわかった。
家業はつぶれ、母と町を離れ山里に来た。慣れない畑仕事もした。春になり花が咲いた。ながめていると木の下にひとりの少女が。どこかで見た気がする。でも思い出せない。いったい誰だったっけ。匂いを嗅ごうとしたが届かない少女に枝を引っ張ってあげた。ありがとうと少女。なぜだろう、とても懐かしい感じがした。
少女は郁といった。月日はながれ二人は成長し結婚した。子どもが生まれて、母が亡くなり....雨の晩に旅の蟲師が来て...娘が嫁いで、年を重ねて...帰り道に洞を見つけた。何か妙だな、でもいったい何が? まただ、また思い出せない。でもこの穴は前にも見たことがある。中から花の匂いがする。ならたぶんどこかに出られるはずだ。早く戻らないと郁が心配する......
春になり花が咲いた。花を眺めていた少年、カオルはまた何か思い出しそうになった。何だったかな。思い出せない。この頃、何だか変だ。ずっとこの家に住んでいるのに、時々とても懐かしい感じがする。前にもこんなことがあった気がする......
郁と結婚した。娘が生まれた。ああ、この場面も見たことがある。ずっと昔に。でもずっと昔って、いったいいつだ? 冬になって雪が積もって、屋根の雪を下ろして...また春になって...思い出せない。いつも、どうしても......雨の夜に旅の蟲師がたずねて来た。
何か具合の悪いところや奇妙なことでもあれば役に立てるかもしれないと言うギンコに、カオルは実はちょっと気になることがあってと話した。物心ついたときから初めてのはずなのに見たことがある気がしたり、前にも同じことがあったような気がする。気のせいじゃなくて、今もこんな雨の晩に前にもあんたを家に泊めたことがあると。ギンコはこのあたりに来るのは初めてだがなと言った。
だからどうという事でもないが気が落ち着かなくてとカオルが言うと、既視感かとギンコ。もしや夜、花の匂いを嗅ぐと不安になるとかと聞かれ、そうだ、何かを忘れている気がしてと答えると、あんたは、回廊に囚われちまったのかもしれんなとギンコは言った。
回廊は花のような匂いを出し、虫や獣を誘い込む漆黒の筒状の蟲。そして誘い込んだ獲物の時間を円環状に歪めると言われている。だとすれば、同じ時間を繰り返し生かされることになる。誰にも確かめる術はないが、もしそうだとしたら、あんたはもう、同じ人生を何度も生きているんだとギンコは言った。
そして、この先のどこかでまた同じように回廊に出くわす。気づかずにまたその中をくぐってしまえば、また時間は繰り返し同じ人生を味わう。既視感を持つ者の記録はあるが、すべてを調べることなど到底できない。何一つ言い切ることはできないが、一応、花の匂いがする暗がりには用心したほうがいい。
回廊に囚われた者が思うように過去を変えたという話は聞かない。それに既視感を持ったということは今までのように昔に戻ることはできないかもしれない。何度もくぐるうちに回廊と同化してしまうかもしれない。決してもう一度くぐろうなどとは考えるなよとギンコは言った。
変えたい過去もあるが、それよりこの先が見たいとカオルは言った。娘の成長や孫の姿や、まだ見たことがない毎日が。翌朝、旅立つギンコを見送る...そしてまた月日は流れて、ふたりは年を重ね...山菜採りに出かけたカオルはすっかり遅くなってしまい...早く帰らないと...花の匂い...そして洞を見つけた。
ああそうだと気づくカオル。何度もこの穴をくぐった後、あの頃に戻って...カオルは穴をくぐらずに家に戻った。外で郁が待っていた。これは初めて見る。ずっと幸せな悪夢を見ていたようだと言うカオルに、どうしたのいったいと郁。これからはずっと新しい毎日がやってくるんだと言って抱きしめた。
きのこ採りに出かけたふたり。郁の姿が見えない。カオルが探すと郁は崖下に転落し頭から血を流していた。郁を背負って運ぶ。すぐ医者に連れていってやるから辛抱しろと言うが体が冷たくなってくる。このままでは里に着くまえに郁は...目の前に洞があった。ギンコの言葉を思い出した。決してもう一度くぐろうなどとは考えるなよ。
洞の前でカオルは郁に言った。この中から花の匂いがする。里への近道かもしれん...カオルは洞に入った。大丈夫だよ、お前は助かるんだ。そしてまた遠い未来に俺と一緒に暮らすんだ。
春になり花が咲いた。匂いを嗅ぎたいが届かない花の枝を少年が引き寄せてくれた...月日は流れ...夫のカオルと娘と3人での帰り道、郁は花の香りに何か思い出しそうな気がした。何か懐かしいような、恐ろしいような......雨の晩に旅の蟲師がたずねてきた。
☆次回 「残り紅」