松井冬子(第4章 不浄の肉体をもつ聖女への慈しみ)
画家 松井冬子今回は訂正事項となります。それは、以前の記載の「松井冬子(第2章 主張の概要)」にて、「血やはらわたを繊細に描く事に・・・」という一文を記載しましたが、正確ではなかったということです。確かに、松井冬子のデビュー作ともいうべき「世界中の子と友達になれる」には血が画かれていました。少女の白い手と足の指先に、血液が画かれていたのです。しかし、その後に画かれる数十の作品には、血液は画かれていないのです。今回の横浜美術館で展示された全作品を注意深く観ると、腑(はらわた)は画けど、血は見当たらないのが分かります。血液なのか、赤みを帯びた肌なのか微妙な作品は1,2点ありますが、それも極力血液として画いていない。なぜでしょうか。“その内側でさえも真実であり、美なのだ” との主張と反するようにも感じます。確かに血液も腑と同様、内側であり真実です。なのに松井冬子は、血を避けるが如く、画こうとしなくなりました。この件に関する、冬子の説明は見当たりません。私が思うに、作品の女を汚れた姿にしたくないからだと思います。冬子は自分の作品に登場する女を愛しています。「そんなことはクリエーターとして当たり前だ」と言うこと無かれ。私は文筆家でも主人公をトコトン不幸に追いやって、THE ENDの小説を知っています。冬子は作品の女を愛するがために、血で汚したくないのです。血に対する印象は、男女で異なります。女性は月経が身近なために、血液から老廃物を連想するのです。これは、男性には気付かない感覚です。愛する女という肉体を汚したくないがために、血を画かないのです。松井冬子展 ー世界中の子と友達になれるー 横浜美術館 201112/17~2012/3/18http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2011/matsuifuyuko/outline.html横尾けいすけ Yokoo Keisukemail to keisuke450@gmail.com