小宮山量平さんのお話-その1「5月12日に生まれて」
今日は知り合いの方に誘われて大好きな小宮山量平さんのお話を聞いてきました。今日の日本の危機的状況にあって、私たちはどう生きるべきか、というような内容。内容についてはこれからまとめますので、それまでは以前書いた小宮山さん関連日記を読んでいてくださいね。初めて小宮山さんのお話を聞いた時、感動で胸が熱くなり涙がこぼれてしまったのだけれど、今日もやっぱり泣いてしまいました。それは康夫ちゃん絡みだったのだけれど、そのことも一緒にまとめますね。★★小宮山量平さんのお話を聞いてきました★★童心を持って楽しく生きることだよ★★知と愛に寄せる37章*******************今日は誕生日の話から始まりました。(以下、小宮山さんの口調を真似て書いてみます)僕の誕生日は5月12日なんだけれどね、その日になると必ず口ずさむ歌があるんだ。それはこんな歌。(といってメロディーを披露)★★「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」それまでの軍歌はみな戦意を鼓舞するような勇ましい曲が多かったんだが、この歌のメロディはそれらとはぜんぜん違うんだな。これは初めて戦争の悲しみを表したものなんだ。アッツ島玉砕……その始まりが5月12日だった。★★アッツ島玉砕1943年5月12日、圧倒的な戦力を持つアメリカ軍がアッツ島に上陸。日本軍は3日で陥落すると思われましたが激しく抵抗、予想よりも遅く、5月29日に玉砕しました。この後、いま映画(硫黄島からの手紙)でもやっている硫黄島の決戦へとなっていくわけだけれど、この戦いを機に「戦争」というものの意味が変わってしまったんだな。★★硫黄島玉砕それまでの戦争は敵と味方の兵力が、真っ正面からぶつかり合うもの、チャンチャンバラバラというものだった。ところがこの時から人間が蚊やゴキブリを殺すのに殺虫剤を撒くように、火炎放射器で兵士を焼き払ってから無血上陸するような「ジェノサイド(皆殺し戦争)」が行われるようになったんだな。だから今後、憲法9条を変えて日本が参加できるようになる戦争は、単なる「戦争」ではなく「ジェノサイド」である、ということを忘れてはいけない。「ジェノサイド(皆殺し)」という戦争には口をはさむ余地がまったくないんだ。それは広島・長崎への原爆投下を見れば明らかだね。僕のふるさと信州上田は繭の産地で、当時、生糸の輸出は7割を占めていた。とうぜんアメリカの恩恵をうけていたよ。関東大震災が起こった時もアメリカからはいち早くお見舞い物資が送られてきた。ここに来ているご婦人の中にはこんな歌を覚えている人もいるかもしれないね。★★青い目の人形その後の日米両国の交流に人形が一役買うわけなんだが、その時に活躍したのが渋沢栄一という人だった。彼は地方銀行設立に尽力した人で、当時は上田佐久地域にあった19銀行というのが信州では一番大きな銀行だったんだよ。長野市は63銀行、63番目で上小の方が先だったんだね。(いまある82銀行は19+63=82というわけなんですね。全然知らなかった。)そしてその孫に当たるのが渋沢敬三さん。上田から東京に転校した小宮山さんは、ひょんなことからこの渋沢敬三氏に出会い、東京の第一銀行に勤めることになったそうです。(この辺、ちょっと中座していて話が繋がりません。ごめんなさい。)★★渋沢栄一さん★★渋沢敬三さん渋沢さんが僕に「この人を覚えておきなさい」といったのが武者小路実篤で、そして彼の誕生日がまた僕と同じ5月12日だったんだよ。★★武者小路実篤武者小路実篤は「いろいろあっておもしろし」と言っている。つまり人生にはいいことも悪いこともある。それらを全て面白いと思えるだけの心の余裕を持たなければいけない、ということなんだ。(つづく)★★小宮山量平さんのお話-その2「いろいろあっておもしろし」