時代が要求した長太刀
ある刀剣有識者が自著の中で書かれていた内容です。此の古書も、今では入手する事は中々難しくなっています。其処で、興味深く面白い内容でありますから、ブログに転載して御紹介する事に致しました。江戸時代に入ってからの刀剣は定寸(じょうすん)と云って、其の長さに一定の基準がある。刀の定寸は2尺3寸5分、脇差は大体1尺5寸前後と定められ、之を取り合わせて大小と称するが之が平時の場合の儀装である。大小の制度の無かった桃山時代以前でも、それぞれの武士達は自己の身長力量に適した物を刀工に注文して佩刀としたが、さてひとたび天下争乱となると長大なものが造り出される。長太刀の画像を探してみました。 少し誇張されては居ますがこんな感じでしょうか。建武中興前後から再び天下が大争乱の渦中に入り、南北朝対立の時代になると極めて長大な物を数多く見る。之を野太刀と云うが、戦う者の心理は何時も同じと見えて、1寸でも2寸でも相手の刀より長大な物を担ぎ出して敵を威圧しようとする。此の心理は充分と頷けるのである。現代の様な、米ロ対立感情から原爆、水爆、そして更に大規模な超水爆を造り出して誇示し、相手国に威圧を加えようとする事と同じ心理と言えよう。南北朝対立という絶えざる国家争乱は、必要として4尺にも及ぶ長大な物を各地の刀匠に造らしめ、特に主産地備前の刀匠達は競ってこの様な物を造り出した。降って戦国末期、秀吉の征韓の役が其の死没によって中止され、慶長五年の天下分け目関ヶ原合戦ころともなると、またぞろ長大な物が流行しだした。当時の著名な刀匠、肥前国忠吉の初期作、堀川国広の初期作、南紀重国の作刀等を見ても其れが判る。二尺六七寸から時として三尺近い物が見られる。更に降って幕末頃、嘉永六年六月米使ペルリが浦賀に来ってからは国内は上下大混乱、攘夷の気風はいやが上にも沸騰し、刀剣もこれらの国情を反映してグロテスクに近い、棒のような直刀の大物が造り出された。特に当時の二流刀工に此の傾向が強い。刀剣を鑑定する場合には、此の寸法と体配だけでも大体の時代を窺い知ることが容易である。幕末に出来た長大な豪刀も、当時の近代装備をほどこした軍艦と大砲には威圧されて、遂に立ち向かうことは出来なかったが、武器の進歩と変遷を知ることも興味深い物がある。ペルリとの通商条約締結後、米側は日本の饗応にこたえて日本の委員を其の旗艦サスクエハンナ号に招待し、盛大なレセプションを催したが、まず驚倒したのが初めて見る軍艦の構造設備、大砲の筒口から内部を覗く者、ロープにふれる者、ボートの寸法を測る者、機関室のエンジンを見つめる者などはよいとして、さて饗宴となって大小を腰にたばさんだ井戸対馬守はじめ各大名連中、料理が出ると最初に目に付いたのがバターとフォーク、異人は宴席にのぞむ場合は頭髪を整え、一本の毛も乱さぬと長崎辺の噂を聞いているので、コリャきっと髪の手入れをするよう鬢付け油を用意したものだろう。それにしても此の櫛は歯が大きくて少なすぎるとの疑問もあったのだが、櫛と間違えたフォークにバターの鬢付け油を盛り上げ塗るわ塗るわ、ちょん髷にこってりと。驚いたのは接伴役の外人、呆気にとられてしばしは声も出なかった由彼等の国力と文化程度の相違は如何ともし難く、この時既に刀剣は武器としての使命を終わって、美術工芸品の類に入ったのでは無いかと著者は語っている。上記軍艦上での出来事は、今となっては真偽の確かめようも無いが、之ほどに伝わっている事から、誰かが書き留め口から目からと語り伝えられたのだろうと思っています。解らなければ通詞に聞けば良いとも思えますが、聞きかじりの生半可な知識があったばかりに、何とも頬の緩む可笑しさを感じるのは不謹慎でしょうか。