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本と対話したい

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Jan 16, 2024
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🔵「ノルウェーの森」  村上 春樹


【今日のキラリ引用】

 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきり思いだすことができる。

 でも今では僕の脳裏に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにもくっきりとしているので、手をのばせなひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこへ消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起こりうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や
大坂って僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすこともできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。

 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなっている。哀しいことではあるけれど、それは真実なのだ。最初は五秒あれば思い出せたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮れの影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中にすいこまれてしまうことになるだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてその音さえもたぶんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。

 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?

 そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。~でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕はその井戸の姿なしには草原の風景を思いだすことができなくなってしまった。~井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メートルばかりのくらい穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。~僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒がーー世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒がーーつまっている。

 「それは本当にーー本当に深いのよ」~「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけど」

 「ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、どれだけ探してもみつからないの。そうするとこのへんの人は言うの。あれは野井戸に落っこちたんだって」

 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは暗闇に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの」

「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいじゃないか」~
「それーー本気で言っているの?」
「もちろん本気だよ」

「ありがとう」~

「でもそれはできないのよ」


「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それはーー」

「それはーー正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」
「~あなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにならないのよ」

「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになってーーどこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」

「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱して・・・ねえ、どうしてあなたはあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」

「じゃあ私のおねがいをふたつきいてくれる?」

「~ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝しているんだということをわかってほしいの。とてもうれしいし、とてもーー救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」

「もうひとつは?」
「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、そうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」

~既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかり胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約束を守りためにはこうする以外に何の方法もないのだ。~何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそジ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。
 そう考えると僕はたまらなく哀しい。なぜなら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

 

 「そうね」と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の眼はどきりとするくらい深くすきとおていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。

 彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじくりまわしていた。

 「ねえ、もしよかったらーーもしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけどーー私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているんだけれど」「筋合?」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと?」

「うまく説明できないのよ」

「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違った風に言うつもりだったの」


「うまくしゃべることができないの」と直子が言った。「ここのところずっとそういうのが続いているのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいはまったく逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

 はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二年生で、ミッション系の品の良い女子校に通っていた。あまり熱心に勉強をすると「品がない」とうしろ指をさされるくらい品の良い学校だった。僕にはキズキという仲の良い友人がいて(仲が良いというよりは僕の文字どおり唯一の友人だった)、直子は彼の恋人だった。キズキと彼女とは殆んど生まれ落ちた時からの長名なじみで、家も二百メートルとは離れていなかった。

 我々三人だけでどこかに出かけたり話をしたりするようになった。キズキと直子と僕の三人だった。

 キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。ちょっとした用事があって喫茶店であちあわせたのだが、要件が済んでしまうとあとはもう何も話すことはなかった。~そして僕と直子は別れ、いつ年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔を合せなかった。

 彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。N360の廃棄パイプにゴム・ホースをつないで、窓のすきまをガム・テープで目ばりしてからエンジンをふかせたのだ。

 キズキが死んでから高校を卒業するまでの十カ月ほどのあいだ、僕のまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。

 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くことーーそれだけだった。~。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだ。

  

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。~
 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
 しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。
 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。

 次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はでーとをした。
 ~
 ~我々は過去の話を一切しなかった。

 ~彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持になった。
 冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持ちになった。
 たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は空虚の中に言葉を探し求めつづけた。

 そのようにして僕は十八から十九になった。日が昇り日が沈み、国旗が上ったり下ったりした。そして日曜日が来ると死んだ友だちの恋人とデートした。いったい自分が今何をしているのか、これから何をしようとしているのかさっぱりわからなかった。

 ~彼女は二十歳になった。そして秋には僕も二十歳になるのだ。死者だけがいつまでも十七歳だった。

 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。~しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。
~直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけながら話していることにあるようだった。もちろんキズキのこともそのポイントのひとつだったが、彼女が避けているのはそれだけではないように僕は感じられた。彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。

その夜、僕は直子と寝た。

一週間たっても電話はかかってこなかった。

返事はこなかった。

「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章が書けるようになるまで         いぶん長い時間がかかったのです。~ 国分寺のアパートを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく病院に通いましお医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいので、少しそこに入ってみようかと思います。~」
 ~久しぶりにあらためてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかはわからない。でもとにかくその九月の終りの気持の良い昼下がり、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい想いをした。僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。
 でも考えてみればこの何年間かのあいだいったいどんな風景に馴染んできたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷やかな空気が入ることになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったい何だったんだろうと考えてみた。でもその答をみつけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼びべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。

 「~ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にスタッフ(~)が二十人ちょっといます。~
 ~
~誰が患者で誰がスタッフなのかがだんだんわからなくなってきます。~まわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。
 ある日私の担当医にそのことを言うと、~彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めてうけいれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方にくせがあるように、感じ方や考え方や物の見方にもくせはあるし、それはなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしあうことになるんだそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だし、そういうのは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですが、それでも彼の言わんとしていることは私にもなんとなくわかります。私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みがひきおこす現実的な痛みや苦しみをうまく自分の中に位置づけることができなくて、そしてそういうものから遠ざかるためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を傷つけなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら得私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。でも私たちはこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族を表す羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。

 この施設の問題点は一度ここに入ると外へ出るのが億劫になる、あるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持になります。自分たちの歪みに対しても自然な気持で対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果して私たちを同じように受容してくれるものなのかどうか、私には確信が持てないのです。

 ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出会って、お互いに好意を抱きあっていたとしたら、いったいどうなっていたんだろうと。私がまともで、あなたもまともで(始めからまともですね)、キズキ君がいなかったとしたらどうなっていただろう、と。でもこのもしはあまりに大きすぎます。少なくとも私にはそうすることしかできません。そうすることによって私の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。


 「そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ」とレイコさんは僕の質問を頭から無視して言った。「まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではなく療養をするところなの。~だからここには鉄格子もないし、門だっていつも開いているわけ。人々は自発的にここに入って、自発的にここから出ていくの。そしてここに入ることができるのは、そういう療養に向いている人達だけなの、誰でもはいれるというんじゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。~」
 
 「~。でもね、あの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ君っていうボーイ・フレンドが死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし・・・」

 「私が『ノルウェーの森』をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲いちばん好きだから、とくにそうしているの。心してリクエストするの」

 「そしてそれが私の煙草代になるわけね」

 レイコさんは指をよくほぐしてから「ノルウェーの森」を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎなるということがなかった。僕もポケットから百円玉を出して貯金箱に入れた。

 「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。

 「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの、どうしてだかわからないけど、自分が深い森の中でまよっているようになるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けにきてくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」

 「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れていたの。そうしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと思っていたの。そんなころ思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそんなことが起るの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」「ごめんなさい」と直子は言った。

 「直子はよくあんな風になるんですか?」と僕は訊いてみた。「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあんな具合になるわね。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろいろな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね。

 「待つのは辛いわよ」とレイコさんはボールをバウンドさせながら言った。「とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もないのよ。あなたにそれができる?そこまで直子のことを愛してる?」「わからないですね」と僕は正直に言った。「僕にも人を愛するというのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でも僕はできる限りのことをやってみたいんです。そうしないと自分がどこへ行けばいいのかということもよくわからないんですよ。がからさっきレイコさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います。

 直子はソファーの上で脚を組みなおした。
 「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものうあ美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなきゃ、これもしなきゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていったのよ。可哀そうなキズキ君」

 「でももし彼が僕に自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたら、その努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」
 直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一人の友だちだったんだもの」
 「そしてキズキも僕にとってはたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」

 「だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこうすきだったのよ。そうすると私もキズキ君の良い面だけみていられるでしょ。そうすると私、すごく気持ちが楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかはしらないけれど」

 「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は小さく首を振った。

 「でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ君もわかっていたし、私にもわかっていたし、あなかにもわかっていたのよ。そうでしょ?」

 僕は肯いた。
「でも正直に言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面とおなじくらい好きだったの。だってかれにはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子、それは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所か見わけがつかなくていろいろなものをごたまぜにしているんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外のひとになんて殆ど興味すら持てなかったのよ」

「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子どもたちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、寂しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介にして外の世界にうまく同化しようと私なりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」

 僕は肯いた。

 「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあなたのことが好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれど、あなたは私と外の世界を結びつける唯一のリンクなのよ。今でも。そしてきぅきくんがあなたのことを好きだったように、私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったのかもしれないまるでわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ」

  「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」と直子は言った。「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」

  「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は少し考えてからそう答えた。「君やキズキやレイコさんがなじまがってるとはどうぢても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外を歩きまわってるよ」

  「でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。

  「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄せながら言った。「こんな風にねじ曲がったまま二度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果てていくんじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷たくて」

  僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。

「まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてくるような気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしようもなくなっちゃうの」

「だってそうでしょ、ずっとまわりの人がお姉さんがいかに頭が良くて、スポーツができて、人望もあってなんて話しているの聞いて育ったんですもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。~でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小さな妹って風にね。~とても素敵なお姉さんだったわ。 彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。キズキ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もなくてーー同じでしょ?」

 「大抵のことは一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談したり、助けを求めたりということはまずないの。べつにプライドが高くてというんじゃないのよ。ただそうするのが当然だと思ってそうしていたのね、たぶん。そして両親の方もそれに馴れちゃって、この子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。~、怒ることもないし、不機嫌になることもないの。~彼女の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二カ月か三カ月に一度くらいそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物もほとんど食べないで。~なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしょ。だからまあ放っておけばそのうちなんとかなるだろうって思うようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。ずっと前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から二十一まで四年間家の中に閉じこもって、結局ある日突然外に出てって電車にとびこんじゃったんだって。それでお父さんこう言ったのよ。『やはり血筋なのかなあ、俺の方の』って。
 ~
 「お姉さんが死んでるのみつけたのは私なの」と直子はつづけた。
 ~
 「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみたいに、目だけ閉じてじっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の腕に身を寄せた。「手紙に書いたでしょ?
 私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし先に行けるものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん自分の好きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかもしれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言ったようにときどき会いに来て、そぢて私のことをいつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ」
 ~
 「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしているわよ」

   ~

 「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つの?十年

も二十年も私を待つことができるの?」

 「君は怯えすぎているんだ」と僕は言った。「暗闇やら辛い夢やら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ」

 「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。
 でも氷沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんはーー多くの僕の知りあいがそうしたようにーー人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った。

 あれからもう二年半たったんだ。そしてあいるはまだ十七歳のままなんだ、と。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の中に残っているし、その中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だし、僕とキズキが十六と十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃたし、それはどのように嘆いたところで二度と戻ってはこないのだ、ということです。

 一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。

 時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどらどしく流れた。まわりの人間はとっくに先

の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は大きく変わろうとしていた。

秋に来たときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は殆んど口をきかないでソファーに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。~
 ~
 「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕の〇〇〇にそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、〇をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度目の​〇〇​
をした。
 ~

 ~。僕は直子を抱き寄せ、〇〇の中に指を入れて〇〇〇〇にあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。

 「この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ」と僕は言った。

 「寮暮しもだんだんうんざりしてきたし、まあアルバイトすれば生活費の方はなんとかなると思うし、それで、もしよかったら二人で暮らさないか?前にも言ったように」

 「ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ」と直子は言った。

「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。
「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」
「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」
「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」
 ~

 「ゆっくり考えさせてね」直子は言った。「それからあなたもゆっくり考えてね」

 

一九七〇年という耳慣れない響きの年がやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへと足を踏み入れた。

 

引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書き、寮のごたごたから抜けだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑にまきこまれないで済むんだと思うととても嬉しくホッとする。ここで新しい気分で新しい生活を始めようと思っている。

 しかしどれだけ待っても返事は来なかった。

 四月四日の午後に一通の手紙が郵便局受けに入っていたが、それはレイコさんからのものだった。

  ~

はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても書きあげることができなかった。私は何度もかわりに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないからと言ったのだが、直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書くのだと言いつづけていて、それでこんなに遅くなってしまったのだ。~

 「 ~

 考えてみれば最初の兆候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。
 ~
 ~彼女は今、日常会話するのにも困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。
 ~

 ~ここは専門的な病院ではありません。~ここの施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこに含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるでしょう。~

 ~レイコさんの手紙を読んで僕が大きなショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向かいつつあるという僕の楽観的観測が一気にしてひっくり返されてしまったことにあった。直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何が起こるかわからないわよと言った。しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ。そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせてきっとうまくやっていけるだろうと。
 しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさんの手紙によってあっと謂う間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚なのっぺりとした平面が残っているだけだった。僕はなんとか体勢をたてなおさねばならなかった。直子がもう一度回復するには長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回復したにせよ、回復したときの彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くしているだろう。僕はそういう新しい状況に自分を適応させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったところで問題の全てが解決するわけではないということはよくわかっていたが、いずれにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいしかないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。
 おいキズキ、と奥は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。

 ~「でも元気がないのね?」

「元気を出そうとしているんだけれど」

 「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」

僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。~
「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないの
があるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあまり好きじゃないのばかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」

「~直子の具合はあまり良くありません。先日神戸から直子のお母さんがみえて、専門医
と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、しばらく専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見てまたここに戻るようにしてはどうかという合意に達しました。~ときどき感情がひどく不安定になることがあって、そういうときには彼女から目を離すことはできません。何が起るかわからないからです。激しい幻聴があり直子は全てを閉ざして自分の中にもぐりこんでしまいます。~」

 

 ~「とてもが事情が込み入っってるんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、本当はどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それがある種の人間としての責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。少なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛していないとしても」
 ~

「時間がほしいんだ」と僕は言った。「考えたり、整理したり、判断したりする時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」

「でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思っているのね?」

「もちろんそう思ってるよ」
 緑は体を話、にっこり笑って僕の顔を見た。「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼しているから」と彼女は言った。「でも私をとるときは私だけをとってね。私ん言っている意味わかる?」

「よくわかる」

「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分に傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」

 ~我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろうか?そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にわかっていたはずなのだ。僕はただその結論を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。
 問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこかの過程で不思議なかたちに歪められてた愛し方ではあるにせよ、僕は間違いなく直子を愛していたし、僕の中には直子のためにかなり広い場所が手つかず保存されていたのだ。
 僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。~
 「~僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。~」

 「前略。~

そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。

~私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。~

 ~

~放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい。 
 もちろん私はあなたと直子がハッピー・エンディングを迎えられなかったことは残念に思います。結局のところ何が良かったなんて誰にわかるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔みますよ。

 ~

 ではそれまで。

                                   石田玲子」

 

 直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰に求めることのできないことなのだと言ってくれた。

 

 ~、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうしてもこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができずにいた。
 そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこでは使途は生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と。 
 そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょ?と直子は恥ずかしそうに笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこう思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまいさから直子はそう語った。

 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くというよりはまるで汗みたいに涙がぽろぽろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。
 キ
ズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。
 「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
 たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない心理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような心理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

~そして僕はキズキのことを思った。おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう。たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方を打うちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子はお前の方を選んだんだもんな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらんとした博物館でね、俺は俺自身のためにそこの管理をしているんだ。

 秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきりと光の澄んだ午後だった。雲は骨のように白く細く、空はつき抜けるように高かった。また秋が来たんだな、と僕は思った。風の匂いや、光の色や、草むらに咲いた小さな花や、ちょっとした音の響き方が、僕にその到来を知らせていた。季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永遠に。

 「あの子はもう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあんなに元気でにこにこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が楽になっていたのよね。それから部屋の中のいろんなものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に入れて焼いたの。日記がわりにしていたノートだとか手紙だとか、そういうのみんな。あなたの手紙もよ。それで私変だなと思ってどうして焼いちゃったのよって訊いたの。だってあの子、あなたの手紙はそれまでずっと、とても大事に保管してよく読みかえしてたんだもの。そしたら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの』って言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに単純に納得しちゃったの。まあ筋はとおてるじゃない。それなりに。そしてこの子も元気になって幸せになれるといいのにな、と思ったの。だってその日の直子は本当に可愛かったのよ。あなたに見せたいくらい。
 ~。それから急にあなたの話を直子が始めたの。あなたとのセックスの話よ。~
 ~『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一度だけ起ったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』
 ~『私何も心配してないのよ、レイコさん。私はただもう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの』」

 「 ~
 六時に目を覚ましたとき彼女はもういなかったの。~そして全員で~探したの。探し当てるのに五時間も時間かかったわよ。あの子、自分でちゃんとロープまで用意してもってきていたのよ」

 「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりとして、人も少なくて、家の人は僕が直子の死んだことをどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじゃなかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです」

 

 「僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。これは誰のせいだとか誰のせいじゃないとかいう問題じゃないんです。僕自身の問題なんです。たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思います。直子はやはり死を選んでいただろうと思います。でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさんはそれが自然な心の動きでであれば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみれば我々は最初から生死の境い目で結びつきあってたんです」
 「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ。はるばるあんな棺桶みたいな電車に乗って」
 ~

「でも僕にはまだその準備ができてないですよ・ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」
 レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。私もあなたも」

 「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらいに幸せになりなさい、としかね」

 

 僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君意外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
 ~「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。

 僕は今どこにいるのだ?

 ​​僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。




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 こんなに長く引用してしまったら怒られるかなと思いながらも、どうしても書き記して今後折に何度も何度も見返したかった。

   ワタナベは十八年の歳月をかけ、直子のかつて言った「私のことを覚えていてほしいの。

 私が存在し、そうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」との重い言葉に対し風化させない努力を文章にしている。

 とことんまで整理し、直子の顔も浮かんでこないくらいにあいまいな、しかし実際には、克明で人影のない背景がくっきりした輪郭になっているような記憶をたどって、「直子を忘れていない」ということと「直子は自分を愛していなかった」ということを長い長い文章にした。

 実はたった四年あまりの歳月の出来事なのだが、今の自分の存在意義(どうして俺はここにいるのか?)を肯定できる強さを身につけることへの確認が、十八年たってようやく文章という形になり完成したように思う。

 

 なぜ、この小説が自分の内面深くまで鋭く強く、まるで草原の中の野井戸に放りこまれ渦の中から這い出ようとし、また、そのあと実際に這い出てきたような感覚に襲われるのか?

 ここからはわたくしごとの話を含めて思うままに書いていきます。

 重たい内容なので、気分が悪くならない程度に臨機応変に素通りしてくださいね。

 

 七年三カ月前、妻は自ら命を絶った。

 直子は二一歳だが、妻は五十三歳、自分は五十二歳。

 同じ土俵とは言えないが、あまりにも、ワタナベや周囲の人がその死に対して受けた衝撃を、本来は言葉として表現できそうにないようなことでありながらも、しっかりワタナベらが言葉として伝えているというこの著に共感を持つとともに、二十一歳からの十八年間、古井戸に落ちずに済んだワタナベに年配の自分も学べることがとても多くあるのではないかと思ったので、原文を長々と写し、それを通して、折あるごとにこれからの生き方の参考にしたいという気持ちを強く持ったのが本音です。

 「あなたはいつか私にうんざりするのよ。

 俺の人生っていったい何だったんだ?

 この女のおもりをするだけのことなのかって」

 

 妻は五十歳を境に百八十度変わってしまった。

 明朗快活な性格で深く悩む姿など見たこともなかった妻だが。

 それが、一日でコップの水があふれでるように社会生活からバーンアウトしてしまった。

 診断でははじめは抑うつ状態、うつ病の治療をしだしたが、経過的にうつ病ではなく双極性障害との診断に変わった。

 たった一日で仕事もできなくなり、日常生活すらもまともにできなくなってしまっていた。。

 そこまでなるまでに気がつかない家族とは?

 世間的には許しがたい、とてもおかしなこと、ありえないことだろう。

 でもそんな状態になるなんて微塵にも想像
していなかった自分にとっては、現実と架空のはざまの中で「まさか」を繰り返す日々。

 妻の言動は徐々に「ごめんなさい」「迷惑をかけて」などの繰り返しになる。

 上の直子の言動そのもののような気持ちだった妻のことを想像するにつけ、献身意外には二人を良い方向に導くことはできないと信じていた自分の心模様がよみがえってくる。

「たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ」

 

 病気になった妻は、自分の症状を客観的に把握できなかった。

 なぜこんなになってしまったのか理解できなかった。

 「母親よりも早く呆けてしまった」とも言った。

 だから自分の意志を伝える判断力もなくなっていた。

 すべてが主観の世界に生きることになった。

 しかし、漠然とした不安感はどんどん大きくなり、どんな言葉も心の深い暗闇に紛れてどこにもひっかからなくなってしまった。

 「大丈夫」という言葉が空虚にシャボン玉のようにはじけて散った。

 そして何も残さないように消えた。

 

「でもとにかくその九月の終りの気持の良い昼下がり、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい想いをした。

 僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ」

 

 妻の看病と仕事の両立はとてもきつかった。

 社会から完全に孤立してしまった妻が一人で留守番していることを考えると、仕事は定時にできるだけ帰ることとし、帰った時の妻の姿を見てホッとする毎日だった。

 病気になって間もなく妻は夜中に家を抜け出し、近くの川に飛び込もうとして諦めて帰ってきたり、包丁を持って自傷しようとしたこともあった。

 なんで妻にこんな災難が起るのか?と考え、自分ら夫婦が社会から隔離宣告を受けたように思い、目に映る周囲の人々がみんな幸せそうに見えた。

 妻の注視妄想や貧困妄想などはどんどん悪化していった。

 

「外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。
 
でも私たちはこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。
 
私たちはインディアンが頭にその部族を表す羽根をつけるように、歪みを身に

つけています」

 

 妻が病気になってから、徐々に社会との隔たりが大きくなるにつれ、自分もこの理不尽さを強烈に意識するようになり、その「歪み」が意識下に上ると、「歪み」を意識していない人とは別のマイナリティーの世界で生きることを余儀なくされているように思った。

 世間一般では「歪み」に気がつかない人は多く、自分もその類の人間だったが、実際、冷静に考えると完全に「歪み」を意識する側の人間であることに気がついた。

 そして、「歪み」に気がついた人が世間で平穏に過ごせることは至難の業であることにも気がついた。

 直子も「歪み」を意識する人の集まりの療養所で生活することになるが、それが、実社会への移行の場となるには、ハードルがかなり高いのが現実だと思う。

 ただ、どちらが正常な社会なのかは疑問であり、この一般社会を生き抜けるかどうかがその尺度となり、生き残ることができた人間がマジョリティー側になるということだけが現実である。

 唯一の「歪み」との付き合い方は、その「歪み」を治すのではなく、その「歪み」を受け入れそれを認めること。

 それ以外に「歪み」とつき合う方法はないのだと思う。

 

 「レイコさんの手紙を読んで僕が大きなショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向かいつつあるという僕の楽観的観測が一気にしてひっくり返されてしまったことにあった。

 直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何が起こるかわからないわよと言った。

 しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ」

 

 妻の病状は浮き沈みがあった。

 初めはうつ病と勘違いされ抗うつ薬が処方された。

 その薬を飲んで一カ月ほど経って、妻の病状は急に好転した。

 「これで一過性の病は治った」と安堵し、ほんの一時の神様のいたずらだったんだと天にも昇る気分で、久しぶりに一緒に散歩に行くこともできた。

 「なんだ大げさに考えなくてもいいんだ」と楽観的でとても暖かい気分に包まれたことを思い出す。

 しかし、妻の症状はとても活動的になりすぎ、朝の六時から玄関のペンキ塗りをしたり、スーパーで買ったお米にクレームをつけ返品するなどの正常でない行動がでるようになる。

 うつ病ではなく双極性障害2型という病名に須診断が変わった時期だ。

 この二つの病気は服薬治療の方法も全く違い、うつ病の治療をした場合、双極性障害の症状は大きく悪化する。

 ここから第2の治療が始まる。

 症状は症状は一気に変わり、妻は陰の状態の世界に逆戻りする。

 こんな経過を目の当たりにし、精神疾患の怖さをいやというほど味わう体験をする。

 本人の気持ちとか勇気とかがどれほどの影響も与えないまさに難病であることを実感する。

 社会復帰できる可能性はどんどん減っていき真っ暗闇のトンネルをただただ進む、という地獄の日々を妻は過ごすこととなる。

 薬がうまく合い体調が良くなって、楽観的な気持が芽生えた頃にまた体調が悪くなる、そんな状態を繰り返し、それでも、いつかは良くなるはずだ、という気持ちを糧としないと自分の気持ちも持ちこたえられない、そんな偽りの楽観主義の中の毎日。

 ちょうどワタナベが感じていた、いつかは?という気持ち。

 やはりそこに活路を見出す以外に気持ちを保持できない状況、本当に自分事のようにワタナベの思考回路がダブってくる。

 

「直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰に求めることのできないことなのだと言ってくれた」

 

 仕事中に着信が何度も入っていた。

 仕事が忙しく忙殺している時だった。

 携帯を見る暇もなかった。

 夕方、ようやく携帯に気づき電話をする。

 「警察ですが」。

 とても嫌な予感がした。

 しかし、「まさか」という楽観論で自然と防備していたその鎧も粉々に崩れ落ちることとなった。

 病院へとにかく走る。

 何も考えられない。

 呆然自失状態。

 病院でかすかな期待も破棄される。

 現実を受け入れられない。

 現場の河原に警察とともに行く。

 自家用車が止っている。

 昼休みに帰り「バイバイ」と別れて・・それが最後の姿になった。

 誰も止められない、なんて誰が言ってくれるだろう。

 ずっと一緒にいて気がつかない鈍感さを誰が許してくれるだろう。
 
 時間を巻き戻したい。

 昼休みに帰ってそのまま家にいたら。
 
 仕事が忙しいなんてどれほどの意味があったのか?

 それだけはないと確信していた自分のノータリンさ。
  
 現実が受け入れられず心が宙を舞っていた。

 すべてが自分のせいだ。お先が真っ暗になった。

 

「こ​​んな風にねじ曲がったまま二度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果てていくんじゃいかって。

そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃうの。

ひどいのよ。辛くて、冷たくて」

 

 直子はまだ二十歳、若さのまっただ中自分から命を絶ち切った。

 このまま年をとって朽ち果てていくというような妄想を抱えて・・病気は特権である若さにまで否定的な感情を植え付けていく。

 妻は五十歳から自分に対する全能感を失っていった。

 ちょうど更年期障害を発症しやすい年である。

 今までできてきたことができなくなり老化も加速していく。

 薬ひとつ飲んだことがない健康優良児だった妻には、老化が許せなかったのだろうか?

 老いていくことを自然な流れとして受け入れできなかったのだろうか?

 薬が細胞に浸透し、飲み続けるごとに副作用が現れる。

 しかし、飲まない選択はない。

 体の芯まで凍りつくような感覚だったのだろうか。

「でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。

『私にはそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。

それは二度と戻ってこないのよ。

何かの加減で一生に一度だけ起ったことなの。

そのあとも前も、私何も感じないのよ。

やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ」

 

 この小説で際立っていることは、性の場面が多いことである。

 引用した箇所がブログに載せたらいけないような表現となっていて登録ができない場面もあった。

 読み進めるに従い、あまりにすぐ性へ結びついていくので、本筋の生と死から性だけが別もののように横歩きしている気がする感覚になった。

 しかし、よく読んでみると、人間の愛を考える上で、性は避けては通れないもので、性がない中での男女の愛はとても限定された愛である。

 セックスのない愛をワタナベが果して本当に受け入れられたのか?

 直子はその可能性を知っていて、私のおもりをさせるわけにはいかないと強く思っていた。

 直子が自分を愛していない事実をワタナベはうすうす知っていた。

 実際もし直子が若くなく美人でもなかったら、このような愛の形は生まれていなかっただろうと想像する。

 だから、性がここまで取り上げられたのかもしれない。

 緑やレイコさんとの性も、ワタナベの愛の、ある不可欠な形、を表していて、そこに直子が立ち入ることのできないものがあることを知っていたはずである。

 精神疾患の副作用として、服薬の副作用もあると思うが、性力が減退することは事実である。

 性はこの小説の中でとても重要なテーマにもなっている。

 また『私何も心配してないのよ、レイコさん。

 私はただもう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。

 もう誰にも乱されたくないだけなの』という直子の強烈な拒絶感は、本能的な体の反応で、彼女を死へと追いやる一因となっていたのではないかと思えてくる。

 

「ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。

人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」

 

 みんなに天国へ行くことを見送ってもらえる死は、どんなに悲しくてもそこには救いがある。

 でも、見送ってもらえない死は言葉に表すことができないほどの無念感を家族や恋人などの周囲の人に植え付ける。

 たとえ参列したとしても耐え難い苦しみの中の見送りになる。

 自分から進んで自死を公言する家族は少ない。

 死因を別の病気に公表する場合もある。

 「なんで亡くなったのですか?」という質問を避けるために極力人と話をしないように目をそらす。

 ワタナベが参列した時の家族の反応は、「なぜ知ってここへ来たのか?」。

 「皆にいいふらしはしないか?」。

 それも自然な対応である。

 そんな家族に抱くワタナベの違和感もわからないことはない。

 しかし、両親からしたら、子どもの自死ほどつらいことはない。

 それも、直子の姉も同じ道を過去に辿っている。

 恋人からの立場、親からの立場、配偶者からの立場、兄弟からの立場、友人からの立場、みんな形は変わるが、悲しみの思いは様々にとても重いのである。

 でも誰もが死の理由を自ら積極的に言うことはない。

 言うことはできない。

 沈黙の中に押し込め、それはその先ずっと心の奥底になくならずに存在する。

 だから「自死の人は天国に行けない」などと勝手なことを言う人もあり、そんな世間の目に残されたものは翻弄される。

 天国へ行けないなんて仏教にはどこにも書いていない。

 残されたものが「どうか天国で穏やかな日々を送ってください」と祈ることで、天国への道が開けてくる。

 自死の人の葬儀ほどつらいものはない。

 「人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」というワタナベの言葉。

 ただ、思考も感情も働かなくなって自分の意志とは関係ない方向へ行ってしまう人も多くいることは事実である。

 よく「あの人がまさか?」なんていう声を聞く。

 混乱した極限の精神状態でただ心の休まる場所へ行くことしか選択肢がなかった人、衝動的に理性を飛び越えてしまった人、「人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」って言葉。

 その範囲を超えてしまった人には意味をなさない場合もありえることを多くの人が理解してほしい。

 自死を肯定は絶対にしないが、何も考えられない、勇気とか心持ちとかの精神論ではまったく語ることのできない世界があることは確かなことである。

 残された人ができることは一生懸命祈ることだけである。



「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」 たしかにそれは真実であった。

我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。

しかしそれは我々が学ばねばならない心理の一部でしかなかった。

直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。

どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような心理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。

我々はその哀しみを哀しみ抜い、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ」

 ​​​​キズキが自死してからワタナベの人生に「死」というテーマが大きくのしかかっていった。

 彼はまだ十代であった。

 直子も姉の自死を人間の土台を築く前の幼い時期に体験している。

 直子の父親の弟、氷沢というワタナベの知人の奥さん、多くの自死がこの小説に影を落としている。

 その哀しみとの対峙の中で、ワタナベはまだ生きている。

 レイコさんも生きている。

 その悲しみが癒えたから生きているのではない。

 決して癒えることはない。

 時間がどれだけ経っても。

 でも生きている。

 誰もがいつかは死ぬ。

 生死の境い目で結びつき合っていたワタナベと直子。

 しかし直子はその境目を飛び越えワタナベにさよならを告げた。

 二人一緒にいることが二人の幸せになる唯一の方法とワタナベは思っていた。

 しかし直子はそうは思っていなかった。

 直子の後を追いすがりワタナベが死を選ぶ選択もあっただろう。

 しかしワタナベは生きている。

 後追い自殺をする人は多い。

 死の世界に行った人と自分との境がなくなってしまった人は、哀しんで哀しんでとことん哀しんで、という作業が中途半端に終わってしまい、その先に生まれるもう一人の自分その姿を見ることができずに歩みを止めてしまう。

 直子の自死を通して、生きてるワタナベを通して訴えかけてくるものは、「しあわせになりなさい」「強くなりなさい」という意味を、生と死を見つめる極限の自分の心との向き合いの中から悟っていくことの大切さなのだろうと思う。

 そして、緑という他の人間という存在を受け入れ、心にある直子という存在を良い面での自分の成長の礎として忘れないで留めておきながら、次の自分を生きていくということなのだろう。​

 最後に自死遺族の方の活動をずっとされている高野山大学教授の森崎氏の本を紹介します。自死についての見解はお腹にストンと落ちるもので、遺族にとっては救われる気持ちになります。ぜひ読んでみてください。​​​

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Last updated  May 9, 2024 08:01:32 AM
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