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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2006年01月06日
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カテゴリ:神秘体験空間
 四柱推命は、人間の運命を、生誕の時刻で占うものである。生誕の時刻は、年、月、日、時の4つの柱から構成されるとするので、その4つの時刻を4柱として、いわば神々の4つの生命エネルギーの意味で、占う対象の人間の運命にどれだけ、顕現しているかを探求する学問であるといえる。

 神秘学では、人間を、前回書いたように、4つの体からなるとしている。
 
 1.肉体(からだ)
 2.生命体(いのち)
 3.感受体(こころ)
 4.自我(わたし)

 これらのリズム(周期)は、前回書いたように、1のからだは、男女で差異があるが、約1年、2のいのちは、約1月、3のこころは、約1週、4のわたしは、約1日である。

 つまり、人間の生誕の、年、月、日、時を元に占うことは、人間の、からだ、いのち、こころ、わたしの4つの体の観相、いわば、リズム(周期)をもとに、位相を、見ていることになる。

 力学を方程式で表記するにおいて、初期値が前提になることは、唯物論でも定説とされる。

 あえて、唯物的に、人間方程式を記述するとするなら

  匚命(めい)=匚(からだ)+匚(いのち)+匚(こころ)+匚(わたし)

 ただし、匚は、精神全般である体の全周期のなかから、特定的に、物質化(現実化)した周期のみを抽出し、和をとったものである。この記述は、量子力学の量子化につかわれる数式手法で表記できる。

 例えば、ファイマンの経路積分で記述すれば、以下のように類似表記にでもなるだろうが、あくまで抽象論でしかない。

    〆(経路積分記号)e(iφ)d(x,it)

 数学は抽象論なので、なんでも数的演算が成立する環といわれる数的仮想空間ができれば、表記できるので、そのことはどうでもよく、あえて問題とはしない。実際、量子論が確率論から構成される限り、サイコロを振ってみるまでは、結果がわからず、予測論とはなりえないのである。

 数学が予測論となりえない限りにおいて、実学ではなく、虚学であり、いかなるとんでも論であっても、それと同等かそれ以下の存在でしかないので、この虚学をもって、トンデモ論を破棄することはできない。だから虚学はシルシ(実証)をもとめ、実験と称し、サイコロを振り、体験論に委ねる。体験論は、その土台に依存するので、普遍的というよりは、多様的である。そこで、多様性のなかから普遍性を求め、更に対称性という抽象論に陥る。論理の堂々巡りにすぎない。数学が抽象論である悪しき性質を、数学という抽象性に求めるのは、論理矛盾であり、それはゲーデルの不完全性定理をも彷彿とさせる。所詮、唯物論は、論理的に、自己矛盾に常に陥る危険を孕んでいる。唯物論を極めると自己矛盾に至るので、それを行う人間は、精神衰弱に陥る。

 なぜに、精神衰弱に陥るかといえば、そこには、精神の意志がないからである。

 人間は意志によって活動する。モノには意志がないとするなら、それは唯物論で表記できうる。しかし、少なくとも生命体には、意志が存在するので、唯物論では決定できない。単純な話なのである。

 つまり、唯物論で、なんらかの意志ある生命体を記述することはできない。ある類似した構造体、いわゆる静的な幾何学モデルを作成できるにすぎない。しかし、それはあくまで静的なものであり、動的なものではない。動的なものが、記述できないのは、数学が3体問題を厳密に解けないことに依存することが推測される。

 とりあえず、抽象議論はここまでにしたい。唯物論は光の精神に影をつくるものなのだ! それはエッシャーの騙し絵のようなものだろう。

 では、精神世界、神秘学で改めて考察する。

 人間が、人間の運命を、考察し得るのは、同じ意志からなる体験を共有しえるからであろう。それはお互いの人間の内面にある意志に作用、影響を与えることができるからである。確かに、人間は、モノを意志なきものとして考察するが、モノを、人間として体験はできないであろう。

 体験論に帰するには、土台が共有できること、共に共鳴、実感できることが前提となるであろう。そしてその共有空間を照らすもの、それが周期からなる波動であり、光であると考えられるのである。

 光は宇宙構造を反映した波動である。

 光といっても、電磁波である光は、神秘学でいう光の一部分、一形態でしかない。波動を生じるそのものの性質を、光と呼んでいるのである。だから、光というよりは、太古では宇宙言語、いまでいう創造を生じる言語のことだろう。無から有を生じうる精神のこと。それを言語というのだろう。それは、聖書の記述するところである。

 論点をはじめに戻すと、人間のなかの、4つの体は、それぞれ、その言葉に置き換えられるのである。

 めい=からだ+いのち+こころ+わたし

 という言葉をとるとしよう。四柱推命では、この4つの言葉を、4柱の神々として占う。そして4身1体として、命を知る。

 人間は、4つの神々の意志が統合されて、一体の人間の意志となる。

 ということを、上記の方程式は、物体ぶって、大雑把に書いただけである。

 しかし、太古の人間は、集団のなかに、「わたし」があったので、上記の方程式は、

 めい-わたし=からだ+いのち+こころ

 となる。だから神々と民族長の意志が同じであれば、左辺はゼロとなる。
 つまり、右辺の現実的な意味において、物質体ではなくなるということになる。左辺の神々の意志と、民族長の意志の隔たりがあるにつれて、右辺の物質的現象が顕になるわけである。その分、人間の自由が生まれた。右辺の自由項「わたし」が付け加わった。

 だから、左辺の「めい-わたし」のゼロで無い部分は、悪魔の取り分に置き換わり、右辺に移項される。

 空(無)から有(物質)が生まれる。

 めい=からだ+いのち+こころ+わたし

 という、再び、現代人の方程式になる。人間の進化の目標は、この方程式でいうならば、以下のようになる。

 めい=わたし

 つまり、
 
 からだ+いのち+こころ=0

 という、かっての方程式を組み入れることなのである。

 太古人は、宇宙の構造のまま、その神々の命のままに、生きたので、宇宙と一体化して、方程式の右辺はゼロだった。

 「からだ」の周期は、約1年だから、太陽のまわりをまわる地球の周期、つまり太陽に依存したそのものが、「からだ」だったし、「いのち」は、月に依存したそのものが「いのち」で、「こころ」は、7つの惑星、つまり週に依存して生きた。つまり、

 太陽(黄道十二宮)+月+7つの惑星=0

 のバランス、いわば精神のゆとりのもとに生きた。このバランスの愛のもとに生きた。

 しかし、そこには、自由がない。人間の方程式に、自由を組み入れなければならない。そうすると、再び現代人の方程式が得られる。

 めい=からだ+いのち+こころ+わたし

 「わたし」は、地球の自転に依存する。

 地球の自転=太陽神+月神

 すると、命「めい」は、7柱の神々の命令であり、宇宙構造であり、

 7柱の神々(宇宙構造)=太陽(黄道十二宮)+月+7つの惑星+地球の自転(人間の自由意志)

 となる。実際、神秘学では、「わたし」は、生誕の時刻のときの宇宙構造を伴って、地球上に誕生するといわれる。

 人間が上記の

 太陽(黄道十二宮)+月+7つの惑星=0

 の精神バランスを取り戻すと、

 7柱の神々(宇宙構造)=地球の自転(人間の自由意志)

 となる。そのとき、

 地球の自転=太陽神+月神

 なので、

 地球の自転(人間の自由意志)=太陽神+月神

 つまり、人間の1日の自由意志いかんにより、地球の自転は変わりえる。

 その人間の自由意志は、神々から離れ、悪魔につき、独立することで、生まれた。

 易経を学べば、人間の人生の方程式は、以下のように記されることに気がつく。

 運命=宿命+立命

 これを、現代人の人間方程式と比べると以下のようになることがわかる。

 めい=(からだ+いのち+こころ)+わたし

 となり、

 宿命=からだ+いのち+こころ

 立命=わたし

 だから、わたしという立命により、からだ+いのち+こころからなる宿命を克服していかねば、真の人生とはならないだろう。

 宿命とは、いわゆる神々から離れた命であり、光の影であり、物的な錯誤であり、遺伝とされるものである。遺伝は悪魔である。

 宿命=遺伝=からだ+いのち+こころ

 「からだ」の遺伝は、遺伝子に刻まれた記録、いわゆる肉体に顕れた物質的容姿や外見等、「いのち」の遺伝は、苦痛や病気、寿命等、「こころ」の遺伝は、執着、血縁関係、地位や名誉欲の欲求全般等。

 遺伝を、「わたし」の立命により、克服すること。宿命を超えること。

 これが人生の本来の目的であり、宿命は、上記した、いわゆるカルマの方程式で表される。

 宇宙構造から成る人間のなかの生誕の初期値から、自由になり、「わたし」から、立命することで、初期値からなる線形の方程式を、超えることができる。生命は非線形的なのである。命には自由度が必須なのである。

 その自由は、「わたし」から、宿命を超えることで、新たな「わたし」である立命をつくり、進化の法則、非線形の軌跡を描くことができる。

 そうすると、遺伝=宿命=0となる。精神のバランスである太陽系の調和が、人間のなかに、もたらされる。

 「わたし」という立命は、地球の自転をも変えることができる。

 太陽神+月神-地球の自転(人間の自由意志)=0 

 太陽神と月神の教えを、1日に成すことができればである。

 「1日1善」とはこのことであろう。

 中世、人間は第4位階の天使と呼ばれた。それは地球の運行を司る天使という意味である。

 つまり、人間の自由意志による善なる道徳行為により、愛により、地球の自転は変わり、地球は、太陽と月の関係から独立し、プトレマイオスの天動説のように、地球中心に、太陽系を運行することができるようになるという。

 方程式を超えろ、抽象概念を超えろ。人間の「わたし」の可能性は、遺伝などによらなく、本来、無限大なのである。

 「わたし」の自由項が、無限大になれば、発散し、方程式など無に帰する。人間は神々に帰する無限大の存在なのである。

 現在の四柱推命は、堕落した現世御利益主義のものだが、本来は、太古の占星術、神々と交信する学問だったのである。

 もし、真の意味で占いではない、四柱推命で、占ったとして、その命が、当たらなかったとしたら、それはあなたが、宿命を超えて、自由な存在となったこと。自我が強化されたことを、意味することになるだろう。

 だから、占っても、自由意志により、占いに頼らず、自らの意志で、進むことが大切なのである。本来の四柱推命は、太古の学問だが、占いではないのである。それはその人の与えられた克服すべき人生の課題なのである。

 真の学問は、普遍的で抽象的なものではなく、1人1人個人の人生における主題であり、命題なのである。それを活学という。だから現在の学校で習う学問は、残念ながら、真の学問ではない。

 知的な抽象記号を表出することではなく、生命を育み、自然を受け継ぐことなのである。なにより、具体的で個別的なものである。

 真の学問の実践場は、個人個人の自分のなかにあり、その成果は体験となって結実するのだ! それはやがて、個人の死を超えて、理念となり、宇宙に輝く星々、生命体となるだろう。誰もが、自分のなかの「わたし」という学問の探求者なのである。

 いま、学問は死んでいる。
 
 といわねばならないだろう。死んでいるのなら、自らの「わたし」のなかで、生き返らせることが必要とされるだろう。





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Last updated  2006年01月06日 17時00分02秒
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