ネット情報の活用法 その1806
スピンというと、あるスナック菓子か、大洋ホエールズのシピンという野球選手を想い出す人は、恐らくオジサンだろうが、スピンと聞いて、電子を思い浮かべるのは、物理を学んだ人だろう。学生のときに、量子力学を学んでいて、どうしてもわからなかったのが、内部角運動量というスピンの概念だった。スピンとは、物質性を存立させる基本の概念でもある。しかし、現代物理学の概念では、素粒子は大きさをもたない質点とみなしているので、その素粒子の電子には、大きさがないのに、なぜ角運動量というスピンが生じるのか、不可解だからである。そもそも大きさがないのになぜ回転できるのか、そのときは不思議だった。しかし、この私の疑問は、ある名物教授の死により、解き明かされることになる。スピン - Wikipediaスピン角運動量 - Wikipedia しかも、量子力学の波動関数は確率概念を基にしているので、スピンという角運動量を観測すると、位置が定まらないハイゼンベルグの不確定性関係があるので、ますます謎だったのである。まだ学生だったので、量子力学もほとんど学んでいなかったから、半信半疑で疑問を持ち越して、そのままにしていた。それからしばらくして、母校の物理畑をつくった某教授が倒れて亡くなったという知らせを聞いたときに、自分もその物理畑の作物の一つなので、その教授を思い浮かべた記憶が残っている。その教授は名大出身の名物教授で、海外の物理屋とも交流が色々あって忙しく、御意見番的立場にいたので、自分はほとんど直接指導されなかったが、学生のときに一般相対論の講義を受けたのと、当時は拡がりをもつ素粒子像を、数学でモデル化する研究をしていたのが記憶に残っている。特に一般相対論の計量テンソルを、0を使わずに、1から4の数を使った古い表記法で講義をしていたので、口の悪い無責任な学生には、爺さんノテーション(記法)と共に化石講義とか、タイムスリップだとか、時空の歪みだとか、キ印講義とか、色々と揶揄され、エピソードとなっていたのが、いまも想い出される。自分は学生時代の成績は中の下でよくなく、というのも子どものときから、数学が苦手で、英語はできたが(恐らく子どものときにセサミストリートや米国ドラマを見ていて、勿論、日本語への吹き替えだが、英語的な思考法に馴れていたお蔭かもしれない、文字はわからなくても、欧米人の思考法がなんとなくわかる)。だから、なぜ理系に進んだかも、いま考えてみても不思議なのだが、とにかく当時カールセーガンのコスモスが巷で流行って、竹内均氏のニュートンという雑誌が世間を賑わし、科学ブームで、宇宙を知りたかった一心で、理系に進んだ記憶がある。カール・セーガン - Wikipedia竹内均 - Wikipediaそういえば、大学進学の塾に行っていたときに、東大数学科の塾講師がいたのをいま書いていて想い出した。その塾講師は、物理に進学したかったのに、カールセーガンのコスモスの人気のせいで、東大の物理進学者が激増し、数学科に行く羽目になったのをぼやいていて、学びたい学問が決まっているなら、東大のような教養課程の成績で割り振られる大学に行くのは、自分みたいに失敗する可能性があるので、やめたほうがいいと、盛んに言っていた記憶が浮かび上がった。そのアドバイスが役に立ったのかどうかは定かではないが、数学ができないのに、物理畑に進め、しかも実験系から、どうしても、宇宙関係の理論系がやりたいといって、一年後に、素粒子畑に進めたのは、先の名物教授の支援もあったのが、今考えると、なんとも不思議な巡り合わせなのがわかってきた。数学能力がゼロの質点なのに、物理畑で、低温由来のクーパー対を破って、角運動量スピンで、素粒子に進学できたからである。物理畑に進んだのは、以前紹介したが、物理のテストでゼロ点をとり、物理の最先端を学べば、高校物理など余裕だろうという浅はかな考えから、本屋で内山龍雄著「物理学はどこまで進んだか」という本に出逢って相対論に魅了され、数学ができないのに、進学した経緯だったので、大学に進学しても数学のセンスがないので、相変わらず数学は覚えるしかなかった。だから、ミーハーで物理屋になっただけなんである。内山龍雄: 物理学はどこまで進んだか; 相対論からゲージ論へ, 岩波書店, 東京,1983, viii+216ページ, 19×12cm, 1,400円 (岩波現代選書, NS536). (jst.go.jp)数学をつくるというよりも、数学は道具にすぎないという物理屋の立場が救いにもなったわけだが、それを使いこなす能力に欠けていたので、数学の成績は悪く、大学院では実験系の低温研究室になんとか滑り込みで進学できた。低温研究室にも超伝導を研究する理論的なギンツブルグ-ランダウの方程式もあり、素粒子理論から、南部氏が提唱し、クーパー対の大発見となるBCS理論もあったが、実験系では日本社会特有の上下関係もあって、ひたすら労働力を酷使される24時間休まずに働けますかの師弟関係の職人ブラック世界なんで、組織よりも、自由で独創的な、一匹狼的な、孤高の理論系に益々憧れるだけの一年間だった。ギンツブルグ-ランダウ理論 - WikipediaBCS理論 - Wikipediaそんなこんなで、先の名物教授に救われて、実際の戦力というよりも、おそらく付け足しの、迷える子羊の遊軍的な棚ぼた的な感じで、素粒子畑で育成されるようになったが、そのような経緯から、先の名物教授の死を想い浮かべたときに、質点ゼロのスピンが、渦であるのが、思考のイメージの中に浮かび上がってきたのである。いまググってみても、もはやスピンが渦であるのは普遍的真理になりつつあるようである。その名物教授が亡くなったのが、ほぼ30年前なので、ようやく現代物質社会が、あの世の知性に追いついてきたのかもしれない。物質中の渦度を用いたスピン輸送 – mmatsuo.comja (jst.go.jp)磁石の中の小さな渦が社会を変える?スキルミオンとアンチスキルミオン | 理化学研究所 (riken.jp)電流渦現象 | 埼玉大学 工学部 藤本研究室 (saitama-u.ac.jp)三次元では、渦は左巻きと右巻きができる。いわば鏡像関係のようなものである。四次元では、時間軸を考えると、三次元空間自体が一つの渦となるので、恐らく六次元になるように思われる。自分は数学ができないので、数学者に検証してもらう必要があるが。恐らく、左向きの時空が過去に向かう時間軸で、右向きの時空が未来に向かう時間軸なのかもしれない、というのも、物質界のほとんどの物質は左向きでできているからである。それは素粒子のニュートリノの質量が、左巻きしか観測されていないからでもある。右巻きは、鏡像対称性で、反粒子の反ニュートリノとされている。ニュートリノ - Wikipediaなぜスピンが宇宙の渦なのか?という話を持ち出したのかは、あの世の、未来から過去に向かう時間が、つまり、宇宙の右巻きの渦の反ニュートリノが、地球の物質界の時間の流れの左巻きの渦のニュートリノと出逢うことで、その鏡像関係の光から、偏りが生まれて、光子から、反電子と、電子の物質界をつくるようにみえるからである。そして、それを記録し、現象させているのが、キリストのカルマと輪廻転生の原理に思えてきたからである。左と右の渦の融合から、僅かな偏りが生まれて、我々のエゴの地球の物質界が、キリスト原理により生まれているように思えたからである。それは例えば、人体のPH値が、中性の7よりもわずかに7.4の弱アルカリ性に傾いて、恒常性を保っているのでもわかるからである。実はこの渦の話は、古事記や日本書記の、イザナギとイザナミを髣髴とさせる。宇宙の流れがマクロの左右の渦から生まれ、電子がミクロの左右の渦から生まれるのは、共に、光と闇の渦から生まれると考えると、我々人類は、宇宙のネガと、地球のポジの鏡像関係にある、のがわかる。そこで、このネガとポジを出会いさせて、左右の渦である時間を司っているのが、カルマの輪廻転生のキリスト原理というのが、人智学から解き明かされるように、みえたわけなんである。ON THE TRIP (on-the-trip.net)輪、渦、渦巻、螺旋 (kamnavi.jp)それは、このブログで、先に紹介したニュートンの3つの力学が、仏教のカルマの法則の物質的な表現にすぎないと、人智学から解き明かせることからもわかる。慣性の法則が、善因善果、悪因悪果で、慣性による運動の法則が、一灯照隅、万灯照隅で、作用反作用の法則が、輪廻転生の法則という感じだった。仏教的にニュートンの運動法則を解き明かせば、前世の自分が、現世の自分をつくることが、慣性の法則で、外の他者から何の力も加えられなければ、自分は、前世の行為からつくられた自分のままで、つまり自力で生きることになる。このニュートンの慣性の法則を唯物論では、物質がもともと持つ能力で、慣性力の、質量としているが、仏教では、本来は、前世からの因縁から生じているので、質量を、より詳細にいえば、前世の自分の行為から、現世の能力となっているので、質量は、前世での自分のエネルギーから生じる。この前世での自分の行為によるエネルギーは、エーテル体の光によって、ディラックの負の海の、虚空日記に時間と共に記録されているので、現代の地球の時空間からみれば、時空間上の運動を可能にするポテンシャルエネルギーになる。問題は、その記録を、いつ虚空日記から引き出すかにある。それは、次のニュートンの運動の法則で、他者との交流である、のが読み解ける。他者からなんらかの作用を加えられない限りは、自分は過去の自分のままで、負債を抱えたままなので、独房に居るのと同じ運動を続けるのが、慣性の法則で、だから、人間は物質界で、他者と何らかの運動をするために、作用を受けないと、進化できないわけなんである。自分そのままだと、重力という悪魔に堕とされるだけで、自力で自分を浮上させるためには、とにかく、ニュートンの運動の法則から、他者の誰かとつながる必要があり、運動しないといけない。だから、自分を核として、誰かとつながるための運動をして、自分に埋没する渦ではなく、自分から自由に解放させ、浮上する渦とならないといけない。自分であるために同時に自分でないために、左の渦は、右の渦を必要とするわけなんである。というのは、自分とは、左の渦と右の渦のちょっとした傾きの違いから生まれるからである。この自分の存在を、シュタイナーは、脳の質量で良く表現している。成人の脳の重量は約1500グラムだが、脳脊髄液の浮力のアルキメデスの原理により、いわば水中での重量しか感じずに、大体、数百グラムの重さで済んでいるわけである。だから、自分は、その数百グラムの重量感しか感じずに済んでいる。人体の60~70%はほぼ液体で、水のようなものだから、脱水などで、人体から水が失われると、人体は、脳を重く負担に感じてしまい、自分を支えるのに疲労感がでてきて、自分を投げ出してしまうようになる。人体から、脳を追い出し、霊魂を脱出させようとする。墜落する飛行機のようなもので、これが熱中症の実態である。だから、ニュートンの第3法則の、作用反作用の法則は、この自分と他者の関係を良く表現している。しかも、前世の自分は、現世での他者でもあり、前世と現世では、自分は他者とネガとポジで入れ替わっているのが、カルマの法則で、輪廻転生の法則でもあるから、この作用反作用の法則は、前世の自分と現世の自分が鏡像関係にあり、そして、また、過去から未来に流れる物質界の左巻きの安定化への時間の流れ、そしてこの時間の流れを、神道では、水の流れというようで、「み」で表すようである。そして、鏡像関係の、あの世の未来から過去に流れる、いわば過去に遡る記憶の、時間の流れを、神道では、火の流れというようで、「ひ」で表すようである。神道からみると、渦で話題の、イザナギとイザナミのイザナは、「いざなう」からきているようで、誘う、誘導する、という意味がある。だから、イザナギとは、本当は、イザナ火で、火の時間の流れに誘導するという意味で、未来から過去を振り返る行為で、イザナミは、イザナ水で、水の時間の、物質界の現実に戻るという意味で、過去から未来に進む行為になるのかもしれない。だから、常に自己反省して、自己を新しく改革していくことが、過去の時間の火の神と、未来の時間の水の神から、左と右の渦の関係から、わずかに前に進んでいくのを説いているのかもしれない。【境内案内2】 神は火水なり – 火祥殿 – | 身曾岐神社 (misogi.jp)この神道の火水の神の由来から、私には、♪一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる♪の人生はワンツーパンチの水前寺清子氏の、三百六十五歩のマーチを思い出させる。前に進んでばかりだと、危険なんで、ときには過去を振り返り、反省して、少しづつ前に進んで、自己開発をしよう、自己を高めあおう、という感じである。♪幸せは、歩いてこない。だから、歩いて行くんだよ♪のなかに、ニュートンの慣性の法則と、運動の法則がある。自分のなかの殻にとどまっていては、慣性の法則で、何も変わらないばかりか、幸せはやってこない。だから、自分から歩きだして、運動の法則で、幸せを掴むために、自分を変えて開拓していこう、というわけなんである。しかし、宇宙には、過去と未来の、2つの逆向きに進む時間がある。だから、その時間の間で、自己を埋没させずに、少しずつ時間の渦の波に飲み込まれずに進むのが、最善の自己改革で、作用反作用の法則を考えて自分のペースで進もう、というのが、神道が説いている惟神の自己改革の法則なのかもしれない。水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)神道とは何か | 御嶽山御嶽神明社 (amebaownd.com)神道では、左手を火の時間の渦とし、右手を水の時間の渦とするらしい。そして、その合掌のなかの、火と水の、ひみの僅かな隙間の時空間の内のなかに、自己があり、これを神の子として、ヒミコと呼んだのかもしれない。宇宙の2つの渦の時間の流れから、自己がカルマの法則として生まれ、輪廻転生を繰り返していくのを、以前、ホログラム理論で紹介したが、実は、この輪廻転生の宇宙の法則を示せる可能性をもっているのが、実は超弦理論ではないかと、最近妄想している次第なんである。そのうち紹介したいと思っています。色々難儀な話なんで、根がグータラなんでどうなるかわかりませんが。