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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2008年07月12日
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カテゴリ:人間は芸術である
 書店でふと、沖正弘著光文社の「ヨガの喜び」という本を手に入れてみた。読んでみて、非常に納得いく本である。現在も読書中だが、お薦めの本だと思ったので、ここで軽く紹介したい。

 「ヨガはただ事実を言うだけだ

 ヨガは特別な教えではない。ことさら神秘的に謎めかすようなものでも、絶対的にありがたがるようなものでもない。

 ヨガは、人間の考え方や行動のしかたの『基本であり結論』『真理であり事実』を示したにすぎないからだ。たとえば、ヨガでは誰とでも仲良くせよ、と言う。これは子供でもわかるような、人間生活の当たり前の基本だ。そのまま、大人にだって通用する。

 また、人を愛せとも言う。言葉だけだと、全く抽象的でなにがなんだかわからないが、例えば、こう考えてみよう。あなたは人を愛するのと、憎むのと、どちらがいいか。どちらが気持ちがいいか、いずれが楽しいか。

 …憎むより愛するほうがいいに決まっている。これが基本であり結論ということだ。幼稚園で教えることより、大学で教えることは難しいが、教えることの基本は同じであるのと似ている。

 体でも同じことが言える。ヨガの動禅(アサンス)は、こういう姿勢と動作が体を安定させるという形を集めたものである。こういう体の動かし方をしていれば、楽だし、心が落ち着くし、病気になることもないという考えだ。禅とは安定の意味である。

 最高の心身安定法を、呼吸、栄養、頭や体の使い方などで説いているのがヨガだ。」

 ということを明快に、著者はヨガの真髄として説いている。

 つまり、端的にいえば、ヨガとは、愛することである。神秘学では、ヨガは、古代インドのヨーガ哲学を源流としているとされ、ヨーガ哲学等は、ノア(マニ)が、アトランティス時代の大洪水から逃れてきて、古代の神の教えを集大成しまとめた、いわゆる秘教からきているという。その元の教えは、ヴェーダンダ(ヴォータン、悟りという仏陀からきているとも?)呼ばれ、現代ではマニ教として一部伝わってもいる。

 こんなことを書くと、神秘的で、幻想的だが、神の教えとは、要するに、人類はお互いに愛し合って協力し、平和な世界を築きなさいということで、そのための助言なのである。

 「病気をありがたいと思うこと

 あなたは、いま自分を『こんなはずじゃない。もっと生き生きとしていたい。』と思っているのかもしれない。私もヨガをはじめるまえは実はそうだった。自分の心や体は自分のものでありながら、これを自分の思うまま動かすことはむずかしい。

 悪い癖や悪い習慣、そのままにしていれば、どんどん病気になってしまう。それでも人間は、それを訓練によって克服できる。訓練で体と心に、いちばん自然な状態をおぼえさせれば、人間はそのとおりに動くことができる。ヨガ行法は、こうして、自分で自分を支配する。

 ヨガでは、『生命は絶対に病気に冒されない。いつも人間は健康でいられる。』と信じている。生命の働きは、健康を守り、維持し、回復することを繰り返しているのだから、人間は病気になるはずはない。病気は健康を守る生命の働きの現われである。

 しかも、生きていることは、それだけで自然なこと、バランスのとれていることだ。野生の動物には、寿命があっても、人間のような不自然な病死はない。我々が患うということも、実は自分の生命力が不自然さを嫌って、自然を取り戻そうとするバランス維持の働きだと思うべきだ。病気に罹ったら、自分の不自然状態を教えてくれる生命の働きに感謝しよう。
 
 ヨガは、このような人間が本来もっているバランス維持の力を最大限に高め、生命の中で実行する行法だ。バランスを心と体に分からせれば、人生はこれまでの数倍楽しいものになる。」

 とも、この著者は、病気には感謝しなさいと説いている。いわゆる病気は、愛のムチなのである。
 
 この事を神秘学で解釈すると、この世の感覚、つまり生きているという感覚は、全て肉体に負う。例えば、肉体をいわば人生の観測装置と考えてみればよい。その観測装置は、真善美というバランスを観測する装置で、その観測機を使って、真善美を観測したときは、喜びという数値が、観測者に与えられ、それとは逆のバランスのない偏った情報を入手すると、観測者、つまり魂に苦しみという数値が与えられるものと考えてみる。

 しかも、その観測装置を上手く構築するのは、観測者である魂の役目で、神が元々その設計図を与えてくれ、設計図通りにバランスよく管理するのが観測者の魂である。また、寝ているときに、神の使い、天使も、メインテナンスしてくれているとする。起きているとき、つまり生きている感覚から、真善美のバランスを観測するのは、我々の管理責任で、いわば宿命と考えるとよい。この宿命をいかに、喜びという数値につなげるかが、ヨガといってもよいだろう。
 
 さて、神の世界の天国にいるときは、真善美しかないので、つまり、全てが黄金律のように、バランスがとれたものなので、これを自然と呼ぶなら、不自然なものはなかったから、観測者は、観測装置を使うことなく、観測は真善美で満たされ、喜びに溢れていたことになる。これが聖書でいうエデンの園である。

 しかし、それでは、人間が自ら真善美を選び出す自由がないわけで、ただ神の命令に従い、与えられている存在で、独立した意志とはいえないわけである。真の真善美とは、自らが選択した意味において、真の真善美であり、自らのなかにつくりあげなければ、確固とした存在にならないわけである。すぐに誘惑に負け、堕落してしまう精神ではダメなのである。

 だから、人間は、自らで真善美を選び出すために、神から与えられた設計図を基に、自分なりの観測装置をつくり、真善美を探す旅に出るわけである。悪魔の誘惑に負け、肉体を身にまとう存在となり、修行の終わりの死を経験することになる。これが原罪で、俗に言う現世ということになる。

 現世には、偏った様々な誘惑や、自由に曝されているわけである。そこは、神々のバランスの世界から離れるからこそ、バランスのない悪魔の世界になる。この世は、悪魔に満ち溢れているわけで、あらゆる悪魔は偏屈なので、偏りを誘惑してくる。

 しかし、人間にはそれを選択する自由の意志がある。人間が拒否し我慢し選択しなければ、悪魔が取り付くこともできない。しかし、詐欺師のような悪魔の誘惑に負け、自由がいきすぎ、放縦となると、病気に罹ることにもなる。だから、病気は、悪魔に意志を売り渡していますよという警告、イエローカードになる。

 長々と書いたが、病気とは、観測装置が、バランスを見い出せないときの警告だと思えばよいのである。常にバランスを見い出し、誘惑に負けない強靭な肉体をつくりあげるための精神の鍛錬法が、ヨガだと思えばよいのだろう。





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Last updated  2008年07月12日 11時49分51秒
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