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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年02月28日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 前回は、八切止夫作品集から、因果というか、カルマのような関係を紹介してみたが、因果関係とは継続するものだから、歴史調査は、因果関係の勉強になることがわかる。

 武器を求める者は武器により滅ぼされる。

 ということは、前回述べた桶狭間の義元と信長の関係でもある。八切止夫作品集によると、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜収容所の血統であることが書かれているので、その部分を以下に抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。

 そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。

 <天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。

 ☆  ☆  ☆

 この「八」の民というのが、原住民族で、後の大陸の進駐軍に反抗し、山に立て篭もって抵抗し土着してサンカと呼ばれるようになったそうだ。

 大陸の進駐軍は降伏した者を奴隷として特定の場所に囲んだので、部落という収容所ができたようだ。収容所の住人は、政治の影響をモロに受けるから、統治者が贅沢をすれば、それだけ生活が貧しくなるのは必定で、税金が高くなれば、人身売買をするような破目に陥る。

 八切止夫氏は、実際、戦時中に満州で、日本人のある母親が食べ物に困って、わが子を現地人に売ったのを目撃したと書いている。八切止夫作品集の「徳川家康」にも書いているように、後の家康となる次郎三郎は幼少期に、祖母に売られたようだ。

 このように統治者の贅沢が、当時の下層民の生活を困窮に追い詰めるので、「世直し」論が活発化する。

 次郎三郎の出身の部落は駿河で、駿河の統治者は、当時今川義元で、義元は領地に莫大な税金を課し、大量の鉄砲を購入するほどの贅沢をしていたという。鉄砲を打つには火薬が必要で、国産されない硝石は外国から輸入しなければならないから、人身売買で外国に売られた子女が沢山いたことを意味する。

 実際、当時のイエズス会のポルトガル船は、奴隷貿易船で、ポルトガルに東洋系の混血が多いのは、人身売買の証拠でもあるという。ポルトガルで東洋系が差別されるのは、暗に人身売買、つまり祖国から売られてきたことを意味するからだという。このことからも偽キリスト教が悪魔崇拝であることがわかる。
 
 だから、最新の軍事兵器をもつ者ほど、多くの人々を犠牲にしていることを意味するわけで、戦国時代の今川義元が、部落出身の家康や、収容所出身の血統の信長に騙し討ちされるのは、ある意味、自業自得で、天命ともいえる。

 そもそも義元が駿河を支配できたのは大陸進駐軍の仏教信仰からくるが、仏教信仰のために、神道信者は追われ隠れ住むようになる。

 イエズス会が布教に失敗したのは、既に仏教が、神道に対して成功していたからである。しかし、信長などのキリシタン大名には、キリスト教と神道が思想においてほぼ一致していたので、最新兵器の輸入に都合がよかったから、利用された。
 
 しかし、信長は、最新兵器を利用し、多大な犠牲を強いたことで、最後は、最新式の爆薬により本能寺で爆殺される。キリシタン大名は、秀吉や家康により最前線に送られ、ほとんどがキリシタンとして追放される。

 このように、八切止夫作品集から、戦国時代は、神道と仏教の代理戦争の様相を呈していたようである。

 仏教徒と神徒との争いは、日本の差別の土台になっているように思われ、その争いが「村八分」の要因となったようなので、八切史観の村八分の論考を以下に抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 村八部の起り

 頼山陽が門下生になり教えを受けた事もある備後神辺の儒者にして詩人でもあった菅茶山は、文政10年(1827)年8月に死去する前に「福山風俗」「福山志科」を書き残した。

 その中に備後福山市東の三吉村に、「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜る時、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。

 この水野侯というのは「汝も光秀に肖るべし」と、家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、大坂夏の陣の大和街道の指揮官を勤め、後の島原の乱にて討死にした板倉重昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落と聞くや、老体に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てていたが、この倅が旗本白束組の水野十郎左衛門である。

 さて、この福山の三八について、「六郡志」に、「三八は常に両刀を腰に帯び、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村專故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にて、これを行っていた」同地方の事を誌している。

 また「備後御調史料」では、「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、普段は捕縛術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。

 これは「おどま勧進勧進」の五木の子守唄で知られるように、いわば「乞食」扱いを蔭ではされながら、表向きは刀を二本さし代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、でっちあげのように牢屋へ放り込んで断罪していた三八の風俗である。今でも言われる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源かこれからだという。

 さて、なぜ百姓が彼らを乞食扱いしたかというと、正規の扶持米ではなく、百姓から役得のように米を巻き上げ、それで寄食していたせいである。

 明治維新で薩摩出身の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。

 また、裏日本での「因幡志」にも、「伯耆や因幡にては、元日、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀を貰い受く。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハチヤ預けといいて、彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた。」とあるし、出雲などでは、「文化4年(1807)松平出羽家書上書」という公儀へ提出の公文書もあり、それには、「当家が雲州の拝領せし後、各郡ごとに『郡廻り鉢屋』を設け郡牢を一個所ずつ置き、この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ『屋職(やかた)』とよばれ、その下に『村受け鉢屋』があって、これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担当区内の村民の非違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の集落移住地があり、ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練。山陰地方にて名ある武芸者はみな此処の出身なり」と堂々と書かれている。

 しかし明治7年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が多く、大正6年調査表の「島根県分布一覧」には僅かに、「鉢屋186戸、長吏173戸、番太56戸、得妙3戸、茶筅30戸。計448戸」とある。

 また尼戸の残党が村受け鉢屋や郡代鉢屋になった事の裏付け史料としては、「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」、「はちや、かもんら永々と篭城のところ、このたびも敵勢取りかかり押しよせし時も、おおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄8年4月20日、同10月1日付の尼子義久の花押のある感状が、はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で現存している。

 「掃部頭」というと、今では井伊大老の事をすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安政の大獄を指揮したのは彼個人のバイタリティーのみでなく、「公家に対する地家」、つまり「俘囚の末裔が武家である」という民族の血からの、反動的な圧迫だったともみられるのである。

 それにもともと公家というのは、「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にはならぬ」というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住系の末裔をもって兵役を課し、「夷を以って夷を制す」となし、これが武家の起源であるが、差別の為か蔑視の理由によるか、そこまでは解明できないが「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名ぐらい軽いものしか、武家には与えていない。

 「清掃人夫取り締まり」とか、「配膳係りのボーイ」といった扱いだったのが前者の意味であり、後者は「糺」という文字も当てられ「ただす」と訓されていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化された延暦11年(792)に「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になる事を嫌った」ごとく、「ただす役割」もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。

 だから、よく映画や芝居で「おのれ、不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉が出てくるのは、つまり俘囚の子孫が役人だった事に起因している。

 だからして公家が織田信長の父信秀に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜収容所の血統だからである。

 しかし、尾張の織田家を弾正にしたところで、京へ来て「御用、御用」と召し捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、明治2年5月に新政府はこれを復興。同7月に弾正台京都出張本台、4年2月に弾正台京説摂出張巡察所と、捕物機関を設けたが、後司法省に吸収され、なくなってしまった。

 ☆  ☆  ☆

 八切止夫作品集から、非常に大まかにまとめると、原住民系は神道を拠り所にし、生活していたが、大陸から仏教を拠り所とする進駐軍(藤原系)がきて、原住民系は各地の山々に逃れることになり、進駐軍は、原住民系のうちの裏切り者(三八)を使って、原住民系を支配するにいたった。

 この裏切り者(三八)が、八(はち、や)と呼ばれる人たちで、主に役人や役人配下の、江戸時代でいう岡っ引きをやっていた。例えば、ドラマの銭形平次の子分が、八(はち)と呼ばれ、同じくドラマの水戸黄門のうっかり八兵衛も八(はち)だし、八(はち)が、ひょうきん者として表現されている。

 ドラマでは、ひょうきんものだが、現実には、体制側について、農民から作物を巻き上げる存在なので、農民から怨まれていた存在といえ、明治の新制度になって、最も虐められる存在となった。

 農民を現代のサラリーマン、三八を現代の官僚と考えると、大陸からの進駐軍が、米国になったわけで、この構図が現代にも、そのまま当てはまることがわかる。

 歴史は繰り返すというが、今話題の体罰問題の源流が、農民と三八の関係、いまでいうサラリーマンと官僚の関係から伺える。

 米国の勢いが弱くなり、新体制になると、今度は、官僚たちが村八分される存在となるのだろう。だから、官僚たちは必死に米国を応援するわけだが、時代の流れに逆らうことはできないだろう。TPPなんかやると、一番困るのは、現在の既得権益者であり、官僚たちなのである。いままでの取り分を大幅に減らされて捨てられるからだ。





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Last updated  2013年03月01日 14時54分10秒
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