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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年09月11日
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カテゴリ:神秘体験空間
お笑い番組はよく見るのだが、特に面白いのはトーク番組で、日常出会う面白い出来事などを語り合う、「にけつ」は現代感覚を面白く語っているので、現代人の良き解説番組ともいえるかもしれない。

昔、「パペポTV」という上岡龍太郎氏と笑福亭鶴瓶氏の、当時の現代感覚を面白く語った、昭和の解説ともいえるお笑いトーク番組があったのだが、その当時の雰囲気を面白可笑しく語る話から、落語ができたのではないかと思われた。そこで、にけつをぐぐってみたら、やはりパペポTVにコンセプトがあったのがわかった。おそらく江戸時代にも、当時の世相を面白おかしく語る話から、落語が生まれたのだろう。

にけつッ!! - Wikipedia

鶴瓶上岡パペポTV - Wikipedia

落語 - Wikipedia


スポーツ番組に実況中継のアナウンサーと解説者がいるように、これらのトーク番組は、現代人の世相中継のアナウンサーと解説者のように思える。このような番組から、当時の人々の考えやお笑いの、現代感覚との違いがわかるように思える。

特に何が面白いのかは、時代感覚によって大きく異なるので、私はどうも落語の面白さが理解できず、それは江戸時代に生きた事がないせい、との自分なりの結論に至っているのだが、オヤジギャグといわれて、若者の新しい時代感覚から遅れ、シラケさせ、見下されないように、今では一種のお笑いの強要ハラスメントと囚われかねないので、植木等氏の「お呼びでない。こりゃまた失礼しました。」にならないように注意したいものである。

【昭和のことば】『シャボン玉ホリデー』で生み出されたギャグ 「お呼びでない」(昭和36年)(1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト


私にとって、落語が笑えないのは、恐らく、自分の前世が、江戸時代になく、どこか他の国だったか、あるいは、どっぷりと江戸時代に染まり切っていて、現世の修行のためにならないので、前世の記憶を打ち消されているかのどちらかであると、自分勝手に解釈している。

というのも、江戸時代の感覚を調べると、封建社会なので、どうにも身分差別が大きく、笑うというのがなかったわけではないだろうが、武士は笑わず、笑うのは身分差別された、庶民という感覚があったらしいのである。毎年大みそかに、恒例で、ダウンタウンの笑ってはいけない番組をやっていたが、江戸時代とは、どうも笑ったら武士は恥で切腹もの、という感がなきにしもあらずだったらしく、笑った者は、ケツバットではなく、お家取り潰しや、切り捨て御免の覚悟が必要なほどの、お笑い排除の徳川体制だったようである。

_pdf (jst.go.jp)


いかに平和とはいえ、笑う自由がなければ、平和も絵に描いた餅で、現代では、平和な江戸時代を矢鱈と持ち上げ賛美するが、庶民の暮らしは楽ではなく、だから一揆が盛んに起こり、現代でいえば、警察官僚だった、大塩平八郎が一揆の首謀者となるくらいだったわけなんである。

庶民という言葉も、昔で言う、売女の子という意味で、被差別民の事であるのを、日本史では教えないので、正史というのが明治期の明治政府の創作であるのもほとんどの現代人が理解できないで鵜呑みにしているから、いまだに時代遅れの皇国史観の残滓が世間を横行しているのに気づかずにいるから不思議でもある。

何のために歴史を学ぶのかといえば、人間が同じ過ちを犯さないための教訓であり、精神的進化のためであるわけで、当時の人物を褒めたり崇めたり、信仰したりするわけではないのだから、現代の歴史家がやっている過去の人物の崇拝が、いかにオカルトであるかを、本当のオカルトが撃退しなければいけないわけなんである。しかも、自称歴史家に限って、死んでしまった人を生きているわけでもないのに、まるで、霊にとりつかれたように、まるで本人に合ったかの如く、なぜ囚われているのか不思議でもある。永遠に結ばれない一種の疑似恋愛と同じである。そこに現実感が生まれる余地はない。

「秀吉はなぜ天下統一をできたのか」というNHKの歴史討論番組を先日みたが、ほとんどの歴史家が現代感覚で語っている愚かさに気づいていないのに、驚かされた。当時の天下静謐と、現代の平和の概念を一緒にしているところに無理があり、それに、失敗論として語らないと、時代考証にもならないのに、呆れてしまった。過去の人物はもはや過ぎ去った、いまでは退化した見本であって、推奨してどうするのだろうと思った。

第一、中世の感覚というのは、いまだ現代のような個人の覚醒意識に乏しく、神社仏閣の信仰が篤いので、個人というのが確立していないので、生死の概念も乏しく、墓を建てられるのも、民族の頭とされる貴族だけで、平民の墓は明治以降の明治政府の政策で、坊主の食い扶持をあてがう意味の、後付けで姓とともにはじまったようである。だから、自由に個人が笑うのも許されなかったわけで、家臣は、本家の殿様の手足だったわけだから、仏教体制の基に身分制度が定着していたわけなんである。だから個人の死もなく、民族と大名主家の死だけである。そして、主家だけが残れば、いずれ転生してその末裔に生まれるという輪廻転生の思想はあったようで、だから、主家のために手足になって働く義務があると考えていたようである。このような仏教体制において、キリスト教の個人と神との契約など受け入れられる余地はないわけである。

だから主家の殿様が笑わなければ、家臣は笑う事もできない不自由な存在で、殿様の上にも、貴族の朝廷がいたわけで、だから、各大名にはお抱えの玉の貴族がいて、天下とは、天下に命令をする民族集団の元締めの、上層部の、その朝廷勢力の事を意味するわけである。

その当時の人間の意識構造を研究せずして、なんでも現代の覚醒意識の唯物論に当てはめてしまうから、日本史のほとんど全てが創作で、後向きの、懐古主義や、過去崇拝や先祖信仰になってしまうわけなんである。そういうことをやっていると、新しい文化や文明に遅れてしまい、オヤジギャグにもならない、始末の悪い、どこかの芸能事務所の看板を挿げ替えた詐欺になるだけである。

詐欺というのは、ヨハネの黙示録に書かれた獣666の黒魔術の最たる典型であるので、悪魔の罠にハマらないように用心しないといけない。詐欺は嘘からはじまり、それは、自分の利益のために、他を欺き、損害を与える行為だからであり、それは人類の進化の、万人の幸福のための万人の幸福の妨害を生む行為だからである。

他の誰よりも自分たちが得をしようという行為は、万人が皆平等に幸福になろうという進化を阻む壁になるからである。

どうも、現代の歴史家には、名誉欲や承認欲求に囚われた獣が多いように思える。そもそも自説を披露するというやり方がよくない。比較検討していく進行形式でないと意味がない。戦国時代になったのは、当時の秩序が崩壊しつつあったためで、信長が出てきたのは、三好や細川などの、当時の秩序の室町幕府と朝廷との間に権力の混乱が生じて、外国勢力から、信長が担がれて自由をもたらしたからで、当時の秩序階級に、脅威を感じさせ、つまり、中世に、この国にも、ようやく、個人の覚醒意識が、信長の天下布武で、当時の仏教体制秩序を武力で打倒する機運が生まれたわけである。

日本での個人の自由がどこまで許されるのかが、武力という形で、つまり信長革命として生まれたが、急速な拡大は混乱を招くので、朝廷を中心とした宗教的秩序と、当時の銀資本の貸金体制との権力闘争で、信長は敗れたわけで、しかも最後はイエズス会の裏切りもあったわけで、武力闘争ではなく、頭脳の政治力闘争で、被差別民から、朝廷を傀儡にして最上位階級の太閤になったのが秀吉である。

秀吉は、被差別階級の庶民という、ならず者が武功で武士になり、天皇を懐柔して、豊臣氏をつくり、武士から選抜した正流の豊臣姓をつくり、日本の仏教体制を改革し、日本に仏教体制をつくった本家の唐入りの政治力闘争から、武力侵攻を進めたが、その陣容をみればキリシタン大名の潰し合いであることがわかり、小西行長などはバカらしくなってさっさと和解しようとしていたが、日本側の分裂を生んで、キリスト教イエズス会からの支援も破棄されて、秀吉の豊臣政権は行き詰まってしまうわけなんである。信長は武力で行き詰まり、秀吉は国外との政治力で行き詰った。

というのも、当時の唐には、個人の覚醒意識に目覚めるには程遠い集団魂の手足集団体制だったからである。イギリスでは、民族闘争をやめるための議会が、1265年にできていたが、日本や中国ではまだまだ、古代の文化の集団魂の縛りがあり、武力でなく、個人の覚醒意識での、政治力の論説で決する議会というのは、ペリーの開港要求を課される、身分階級関わりなく、意見を求められた江戸幕末まで待たなければならないと考えられ、それまではなかば天皇や将軍の意向で決せられたので、とても議会とはいえない、お上の御意向を聞くだけの集会といっていいだろう。

だから、日本での個人的な覚醒意識から平等な人権が認められるのは、戦後まもなくといえるかもしれない。日本国憲法による議会民主主義制であるが、それまでは、階級に応じて人権があり、人権がなかば平等に認められてくる現代からは想像困難だが、今でも外国人差別が残っているように、当時の人々には、なかば民族の手足権みたいな階級制度だけがあったわけである。

民族統一を掲げた明治帝憲法はそれをよく表現している。当時にはまだ貴族制が色濃く残っていた。貴族というのは、物欲から生まれる現世的な名誉欲から生まれるから、古代アトランティス時代の集合魂の名残りである。キリストの精神的な個人意識の原理に反するものである。

徳川体制になって公武合体が推し進められたのは、信長の武力と秀吉の政治力のいわば融合である。徳川体制への朝廷の懐柔、取り込みである。だから北条家に学び京都所司代をつくったわけである。朝廷の監視役なわけである。朝廷も、徳川体制の手足となったわけで、歴代の天皇は苦々しく思っていたはずで、それが三代家光の、島原の乱として勃発したわけでもある。

京都所司代 - Wikipedia


徳川体制の公武合体については、天皇の南北朝交代説が、水戸徳川家に残っていて、家康は、水戸家を御三家から外したのは、天皇が南朝と北朝で交互に入れ替わる約束を利用して、徳川家の意向に沿う天皇を立てるためといわれている。そのために、幕末当時北朝の孝明帝の交代のために、南朝の子息を、玉として養育していたというのである。

水戸藩を御三家とするのは、後づけで、本来の御三家とは、江戸本家、尾張、紀州であるという。しかし、徳川斉昭が、自分の息子慶喜を将軍にしたいために、天皇の勅諚をもらい強引に将軍にしようとして、大奥から諫言され、井伊大老に処断され、謹慎蟄居にされたという。

当時に個人の覚醒意識はなく、どの藩が政治の主導権を握り天下に号令するのかの権力闘争にすぎなかったわけで、体制下の庶民に自由もなかったわけで、外国との貿易などは幕府らお上の貴族の特権で、だからどこを開港するかで、権力闘争になるわけで、外国勢力が幕府につくのか、自藩につくかでもめたわけである。だから薩摩藩はわざわざ外国まで行って、博覧会で自藩を宣伝するわけなんである。

徳川家への反乱の、島原の乱は以前に紹介したが、幕府は島原よりも、朝廷の反乱を重要視し、京都治安に軍を置いた。倒幕運動になっては困るので、首謀者は皆殺されたわけで、当時日本にはまだ人権はないから、隠れキリシタンが生まれた。

江戸時代は、笑う事も許されない自由な人権もなかったが、大名の殿様であっても、徳川家には逆らえずに、少しでも不穏な自由な空気を感じられると、お家取り潰しになったわけで、諸藩の殿様は、表立って、笑う事も許されないので、只管、馬鹿を演じるしかないから、幕府の手足の、馬鹿殿というお笑いが江戸時代から遥かに時を得て、個人の覚醒意識として、自由なお笑いのなかで、生まれたともいえるかもしれない。

だから、江戸時代の身分制の手足には笑う自由もなかったわけで、武士は貴族の荘園管理の用心棒だったので、貴族が笑わないと笑えないのである。だから、江戸時代の落語は賭博場のように、秘密糧に行われたわけで、現代のお茶屋が風俗の場であるように、かつてのお茶屋が落語だった可能性も高いだろう。特に外国勢力との付き合いから、自民族に反する、自由な個人の覚醒意識が生まれてくるわけで、落語をするのは、徳川体制に対する反発やガス抜きだったわけなんであろう。

お笑いの歴史を調べるだけでも、当時の人々の意識構造がわかるわけで、歴史家は歴史書物だけを呼んでいるだけでは、論語読みの論語知らずになってしまうわけなんである。

専門馬鹿にならないように、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

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 さて、外では拡大するエーテルが、人体内では、袋状に内面化する事は、次のように人体のなかに、霊的に観察できる。また、次のような図の、第2のファントム(幽体;青の骨格)として提示される骨格は、人体でどのように働くのか、と問うなら、次のように答えられる。



 「青色のファントム(幽体)として描かれた点線は、人体内の物質的骨格で、専ら増殖の傾向を持つ(上図参照)」

 この骨格が適度に抑制され、正常な骨格であれば、耳の発達と関係する。また、このような観点からも、人体の耳の霊的な観察から学ぶ事で、つまり、耳という聴覚の、エーテルの内面化に注目し、同時に、眼の視覚にも注目すれば、自我を通じて、霊視力に導ける。

 というのも、霊的に考えれば、視覚は、光を通じて、聴覚は、空気を通じて生まれるからである。それらは、光と空気の微妙な相違=波動でしかない。

 物質と霊との関係下では、より下方の物質性に向かって配置されるのは、人体では、より中心=中枢神経に向かい、霊的な器官=アストラル体と関係する。対して、エーテルから、外に向かうのは、人体の周辺部=末梢へと移動する器官と関係する。

 菫色で描いた骨格(図参照)の内側は、つまり、アストラル体を暗示する。人体を霊的に観察する為に、覚醒意識の、判断力を用いて、耳の聴覚を手懸かりに、自我を霊化すれば、アストラル体を霊聴できる、一種の秘儀参入者=霊能力者になれる。

 つまり、視覚を霊的に観察する術を学べば、エーテル体の観察力が、聴覚を霊的に観察する術を学べば、アストラル体の観察力が養われる。

 耳が聞こえなくなった、もしくは、生まれつき耳の聞こえない人を霊的に観察すれば、非常に興味深い観察ができ、自然との、より深く親密な関係が明らかになる。生まれつき耳の聞こえない人を、霊能力で観察すれば、生まれたときから、腫瘍になりやすい体質を持つのがわかる。

 つまり、生まれつき耳が聞こえないのは、自然による、いわば救助措置なのだが、その要因を、現世に求めても無駄で、それは繰り返される輪廻転生のなかに理解できる、つまり前世で、自らが成した出来事にあり、前世の調停が、今生で為されるためだが、このような輪廻転生に参入すれば、わかるような現象を、ある程度まで追究すると、繰り返される輪廻転生を把握する際に到達する、ある観点に通じていける。

 人体の周辺の末梢部の皮膚を刺激すれば、視覚を通じた霊的観察から、自我と骨格(幽体)との関係を通じて、自我を強められる。自我を強めるには、自我を霊化する教育法があり、また、薬剤による治療法もある。

 炎症が観察される場合、自我-活動を強め、自我のファントム(幽体)が、視覚に対して、正常な位置の骨格となるように、霊化により強化され、自我の放縦が、抑制されるべきなのがわかる。教育により、自我が正しく位置に組み込まれれば、この骨格は拡大せずに、崩壊しないからである。

 さて、正常な位置の骨格となるように、この自我-活動を、強めるには、例えば、非常に薄い濃度に希釈したローズマリー液、つまりローズマリー(3)の葉から採った微粒子のエキスを加え、入浴すれば、即座に可能になる。

(3)ローズマリー:Rosmarinus officinalis
和名マンネンロウ。シソ科。ハーブ療法、アロマテラピーなどでよく用いられる。中枢神経系機能亢進、血液循環促進と血管壁強化、肝臓・胆のう・腸の機能亢進、抗酸化、老化防止などの作用があるとされる。
ローズマリー - Wikipedia

 このローズマリーの微粒子液を通じて、人体周辺の皮膚の孔の抹消に刺激が与えられ、自我が、周辺部に感覚をもち、働くようになるからである。この現象は人間特有の自我の働きであり、他の動物にはなく、だから、動物の、炎症の治療法にはならない(動物で実験しても無駄である)。





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Last updated  2023年09月11日 20時27分33秒
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