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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年12月26日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
クリスマスの続きを書くつもりだったが、また悪い日本史虫が蠢きだしてきて、日本史暴露もんの八切史観を紹介してみたくなった。というのも、今年になって、巷では、本来は権力の監視役のマスコミが、権力忖度し、一緒に隠蔽してきた過去がようやく明るみになってきたからでもある。

日本史で重要な視点が抜けているのは、いまでも社畜という言葉が残っているように、明治時代までは、表向きにも、日本は奴隷国家だったわけである。

明治政府が戦争をできたのも、奴隷を徴兵にかえたからで、福沢諭吉などは、学問をすれば、奴隷身分から解放されると、学問のススメを書いたから、奴隷身分から抜け出そうと、流行書のように売れたわけで、江戸時代が平和とされているのは、奴隷カースト制度が厳密に機能していたからで、少なくとも、現在のような表向きにも民主主義国家ではなかったわけなんである。

明治政府の富国強兵は、高杉晋作の奇兵隊の焼きまわしでしかなく、看板を欧米風の欧化政策の鹿鳴館で、プロシアのビスマルクに倣って、挿げ替えただけでしかなく、日本史も、プロシアの地政学者を招いて、江戸時代に流行した講談による武士道を、欧米風の騎士道に脚色しているにすぎない。

ルートヴィヒ・リース - Wikipedia
es_9_Takii.pdf (u-tokyo.ac.jp)

この国の現代の歴史学者は盆暗なのか、肝心要の日本史そのものの歴史を検証していないのである。日本史がどのように書き換えられてきたのか、を問わないから、明治政府が都合よく書き換えてきた現在の日本史を盲信してしまう風潮がある。お上の書く創作権威主義の日本史までありたがる奴隷根性なんである。

だから、戦国史なども出鱈目で、戦国大名がいかにも美化され、現代のアニメの主人公のようなスーパースターに描かれ、偉人の如く崇められているが、北野武監督の「首」をみれば、現代の反社組織と変わりのないブラック組織を地で行った姿がリアルに感じられ、従来の明治政府の創作した日本史に洗脳されていた人たちを、奴隷意識から、解放するような予感が無きにしも非ずの今日この頃なわけである。

現にいまでも、政治家の裏金問題でもわかるように、この国の政治をみても、真の民主主義国家とはいえないし、国会を最高議会とする法治国家であるなら、秘書に責任転嫁できる犯罪逃れができる立法能力に問題があり、その立法能力の限界を有利に利用している政治家たちの無能さ、立法を秘書任せにしていることになるのだから、政治家の無責任性を問題にしないといけない。

民主主義以前の中世的感覚の、差別感覚がいまだに残っているわけで、民主主義国家の看板を挿げ替えただけで、いまだに精神的な中身は、中世の差別意識のままで、官僚を「お上」と言ったり、政治家を「先生」づけで呼ぶのでわかる。

私が子どもの頃は、敗戦後の高度成長期の昭和だったが、なぜか、同じアジアの、東南アジア人を蔑視する風潮が残っていた。東南アジアから出稼ぎにきている外国人を差別していたわけなんである。出稼ぎ労働者を差別する風潮が昔からあったといえるだろう。八切史観の日本史を学べば、今の東南アジア人は、東南アジアに奴隷売買で仕方なく売られて行った日本人の祖先の末裔かもしれないのだから。

面白いのは、本来、民主主義国家では上下関係というのはないのだが、この国では、スポーツの世界で顕著に現れるところにある。

例えば、日本のスポーツ選手が、海外に行くと、その差が顕著に現れるのがわかる。米国の野球選手に上下関係はなく、日本の野球界の上下関係を、米国のヒスパニック系の選手に話すと、俺なら我慢できずに、ぶち殺すと言う位の、パワハラ行為に当たるという。

勿論、上下関係が、業界のルールを守るための、ある程度の上からの抑制として、能力で優れる者の謙虚さを促すためには必要で、全くなくなると、能力に優れる者が何をしてもよい、というような、例えば、金持ちがカネの力で、自己都合のルールに書き換えたりする、傍若無人になる可能性も無きにしも非ずではある。

しかし、実際のこの国の現状をみれば、上下関係の権力を利用した権力忖度を行って、金持ちがカネの力で、権力を保持し、自己都合のルールの裏金つくりに邁進していたわけだから、上下関係が悪い意味でしか機能していないわけで、性善説ではなく、性悪説で対応しないといけないのがわかる。

つまり、ルールを上下関係の権力などで守らせるのは、強制的なもので、本来の自主的な意味で、性善説的に守れないと、いつまでも自主的に奴隷意識から自らを解放できないままにいるだけである。

謙虚さは自主的に身につけないと、奴隷根性の裏返しの、単なるゴマすりや、いまのマスゴミのような忖度の太鼓持ちになってしまい、強者にまかれて、弱者を挫き虐げるような、弱い者いじめをする、不埒な輩になってしまう。

これまでインチキの日本史により、多くの国民が戦場に駆り出され、挙句の果てには、原爆二発を落とされて、無条件降伏を食らってきたわけなんであり、いまでも、自称上級国民が、下級奴隷国民を増税で絞りあげて、裏金をつくっているわけなんである。物質的には進歩したようにみえても、実際は、看板を挿げ替えただけで、中身の人間性や、精神的には、何と進歩のない国なんだろうな。

とにかく奴隷根性を一掃するために、八切史観を紹介する。

               ☆       ☆       ☆

 奴隷日本人秘話

 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。

 しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」とポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している

 この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。

 (捕まえた僧侶などで奴隷商売ができなくなったので、殺したのかもしれない。)

 さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。

 だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。

 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。

 由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。

 だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。

 そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。

 そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。

 (信長のアフリカ黒人の家臣の弥助は有名である。)

 さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。

 また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」
とある。

 インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。

 さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。

 この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。

 さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。

 「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」

 「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。

 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、焼玉エンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。

 四日や五日でいけるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。

 さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。

 日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。

 つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。

 もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。

 そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。

 つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。

 五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。

 それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。

 というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。

 真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。

 器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。

 しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった

 よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである

 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。

 判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。

 さて、戦後二十六年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。

 われら日本人

 軟弱レジスタンス

 「プラハの暑い夏」というチェコのテレビのドキュメンタリー番組をみて、すっかり考えさせられた。私は米軍進駐の当時の本土は知らないが、満州で、まずソ連進駐、中共軍進駐、国府軍進駐という三段階を、銃口をつきつけられ、青竜刀で殴られ、後手に縛られながら満人の暴動の中で経験してきている。

 プラハの新聞や放送局は最後まで、チェコ人民のために進駐の非をならし、それに元気づけられた市民の婆さんや少年までが、握り拳をふりあげ重戦車に素手で近づき、しきりに口々の抗議をしている場面があったが、満州ではあんなのは見られなかった。

 当初チェコのマスコミは敢然と市民の側にたって、進駐権力に対してあくまでもできるだけの抗議をしていたが、私の記憶の中の在満のマスコミは全然そうではなかったようだ。

 初めての敗戦なので、要領をえなかったのか、それとも権力の命令には絶対服従ということへのなれか、てんで邦人の側には、なってくれなかった。

 八月十五日までは関東軍の代弁者だった彼らは、ソ連軍クラフチェンコ司令官が進駐してくると同時に、その命令通達機関に変わってしまった。

 たしか八月十八日の新聞面は、「歓迎」の二文字を大きくだし、「町の清掃をきれいにしましょう」ということで、大掃除のように割りふりがでた。

そして三、四日すると紙や印刷機がもってゆかれてしまい、紙面は小さなガリ版に刷りになった。

 いま(昭和頃)私たちがモスクワやキエフの空港へゆくと、イン・ツーリストで現在の日本の9ポよりすこし大きい五号や、8ポより大きな旧六号で印刷された日本語の岡田嘉子著やいろんな本を、いくらでも無料でくれるが、あれは二十四年前に新聞社や新興亜印刷から、もっていった活字の字母で刷られたものである。

 やがて十月。いまは粛清され又復活したとも伝わる中共故朱徳司令官が進駐してきた。

 すると休刊していたガリ版刷りがまたしても発行されだし、「日僑(日本人)はその前非をくい、おおいに勤労奉仕をせねばなるまい」というのが発布されたのはよいが、さてそれから、「何月何日何処彼処には日本人誰某が何々を盗んで検挙された」「何月何日、日本人誰某が詐欺を働いた。怪しからぬことである」

 ラジオも新聞も、連日、日本人の声や筆で日本人への攻撃にあけくれした。

 (この日本人同士の攻撃は、昨今の人間よりもクマの生命を優先させろという無神経なクレームの熊駆除の問題にもみられる。)

 十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裡に洩れてきて、いわゆる、「日軍決死隊」が組織され、雪の降る朝。奉天警察総長を初め各地を襲撃した時、「憎むべき日本人暴徒を、吾々日本人の手で捕らえるか、又はもよりの警察へお知らせ下さい。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかも知れません」

 ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取計らいにて差しあげます」となった。

 私は当時(遼陽芸術協会)なる腕章をもらい、旧満映の吉田秀雄に脚本書きをさせられていたが、上演料は一文も渡されず、あべこべに密告される羽目になった。

 しかし、のち北春日大隊をおしつけられ、二千余人の女子供をコロ島から博多へつれ戻ってきた時、引揚船の中に事情を知っている女性がいて、私が密告され逮捕された時の報奨が、粟五斤だったときかされた時には、さすがに呆然とさせられたものである。

 もちろん、これらは外地での話だが、当時日本内地でも、進駐軍に対して、「あなた好みの、あなた好みの日本人になりたい」といった向きも多かったそうである。

 そこでもし、改めて今どこかの国から進駐されたら、いや現実にはもうチェコなどより、ずっと早くからいるのかも知れないが‥‥。

 日本の放送局や新聞は、プラハのように、民族のためにと必死になって‥‥はたして、「チェコ国民に告ぐ。われわれがついている」と声援してくれるかどうか不安でならぬ。

 なにしろ国民性というものがあって、「統治しやすい国民」と、「そうでない国民」の、この二つは厳然と分かれているという。

 さて日本人もかつては勇猛果敢であったそうだが、二十六年前のマッカーサー進駐以降は、「きわめて従順」という折紙がついている。口の悪いアメリカ人などは平然と、「キャトル」つまり家畜だとさえ放言する。

 異邦人に占領されて以来、一度もレジスタンスしない国民というのは、世界史上まことに珍しいそうで他に例もないという。つまり宇佐美日銀総裁でさえ、「公定歩合引上げに関する談話」で、「わが国の戦後の経済成長はアメリカの余慶である」と発表し、歌舞伎俳優の阪東三津五郎丈までが、その生前には役者子供とはいうが何かあると、「おうアンポ」と、アメリカさんのお蔭ですといいだす。もちろん何をいおうと各人の自由だが、こういった従順性というのは、対外的にどういう影響を与えるものだろう?

 「異人種が占領国住民を統治しようと思っても、反逆精神がオウセイで、とても手がつけられぬ」ような、そんな国土なら、何も好んで厄介な進駐をしてくる軍隊もなかろうが、「きわめて国民の資質温順なり」となると、「そうか、そんなに扱いやすいのなら‥‥」

 あちらこちらから希望する向きが殺到、またも、早ばやと重戦車を陸揚げしてくる恐れもある。

 この二十六年前に築いてしまった従順という信用が、やがてとんでもない事になりそうな気がする。その時には、マスコミの人が、チェコなみに頑張ってくれることを願うが、「日本人は家畜なみではないんだ」という抵抗運動も今ではオキナワにあるから、あれがもっと対外的にアッピールすると、「うるさい国らしい」と吾々は助かるかも知れぬ。そうなると苛められている彼ら沖縄県民こそ、真の愛国者という事にやがてなりかねない。

 われらの造反

 学術文化の浪花節

「TVガイド」という小雑誌で『天と地』の演出担当ディレクターの岡崎君が私に対して、「かなり前に岐阜から聴視者の老人が長距離電話をかけてき、謙信は女だという云い伝えがあるとうるさくいってきた。どうもその爺さん頭がおかしいようだと思ったけれど、それと同じように論じちゃ失礼だが‥‥」と、いうような言い方をし、ついでに、「謙信が不犯だったのは肉食妻帯を禁じていた真言宗への深い帰依だったのを考えぬか」とまでやっている。

 私はNHKのディレクターで立派な人も沢山知っているだけに、こういうのには呆れるが、NHKは一般から視聴料をとっているのだから、そこの禄をはんでいる限り、公共事業の職員として同君は私にとやかく言うのは許せるが、親切に長距離をかけてきたという年寄りを、そんなキチガイ扱いなどしてはいけない。

 もちろん私の場合は『血戦川中島』の後書においても、「四年間にわたって謙信が女人と解明したのは、以前には誰もしていない前人未踏のもので私がなしとげたライフワークである。とはいえこれによってゼニを儲けている連中からは好かれんことは見えている。

 こうした労多く効少ないことは利口な人のやらない事で、私みたいなバカ者が、<真実とは何か>という手掛かりをつかむため一つの試みとして根気よく追求してみた迄である」との自嘲めいた附記もはっきりつけている。

 だから岡崎君なるものが、「八切はばかだ」というのなら私は何もいわない。しかし八十歳の年寄りがわざわざ局へ電話をかけてきたというのに、<頭がおかしい>と公言するのはどうだろうか。親切な老人は敬し尊ばねばいけない。

 また岡崎君は真言宗もろくに知らないらしい。勉強不足である。だが上杉家が高野山へ帰依したのは江戸期の元禄事件の後からの事である。

 なにしろ日本では、正しいとか正しくないとか対比決定が、常識や状況で判断されずに、「権力」によって決められるから困る。とはいえNHKは裁判所ではなく岡崎君も判官ではないはずである。

 なお、ここまで書くのは気の毒だが、高野山には各塔頭ごとに訪問者の名を何百年にもわたって記録されたものが残っているから、元禄年間から初めて仏縁をえたことはそれを調べてみても判る

 また謙信が詣でているのは真言宗ではなく天台の延暦寺で、宗旨も<七福神法>なのである

 『血戦川中島』についで刊行された『利休殺しの雨がふる』、解明の先端をきってくわしく、読売新聞に連載した<謙信は男か>も入っているから、その差違をよく読んで欲しい。

 さて話は違うが私の許へもよく七、八十歳位の方から電話を頂く。そして、これまでの通史とは、まったく反対のことを、「代々の口伝えだが、わしには書き残しもできぬから聞いてほしい」と、いうお頼みなので、録音にとらせて貰ったり、その異説の裏づけとなるものを、現地までとんで行き拝見したりしている。

 こうしてみてゆくと、活字になっている正史とは別個に、まるで北海道のユーカラみたいな口伝の歴史というものが、根強く語り伝えられているのが判る。

 これは機動隊と学生が衝突したような場合、後になると双方の事情説明が違うようなもので、権力者は自分の都合のよいように発表しこれが歴史となり、負けた方は口惜しいから、いいつたえで、「真実はこうなんだ」と残しているらしい。

 だから私の場合も、講談みたいな通俗史と違うからと、居丈だかに気違い扱いされては堪らない。

 さて某局の教養番組で、『大坂落城』をみたら、旭堂南陵がまず画面に現われ、大坂夏の陣の一席を伺い、そして、このよき芸人は淡々としてその後で、「東京でやる時は、秀頼は死なせます。が地元では殺さんと、秀頼薩摩落ちということにせな、お客はんが承知しまへんよって使い分けでやってま」と楽屋話を画面でしていた。

 講談とはこういうものである。それをはっきり言ってのけるのはよいことで感心した。

 しかし、この講談が作家の手にかかると、内容はそのままなのに、きわめて真実そうに化けるところに問題があり、それに便乗して史料さえ手作りするような、太鼓もちの歴史家まで出てくるからややこしくなる。

 なにしろ今日の日本史は明治製で、頭山満が軍部のために、桃中軒雲右衛門に、三国干渉への国民の復仇心をアジるため、「花は桜木、人は武士」といった美文名調子をつくらせた時代にできたものだから、「浪花節や講談」がそのままナチュラルに、歴史の仮面をかぶって今もまかり通り、頭の固い人には既成概念となっている。そしてテレビの大河ドラマが今や正史である。

 なにしろ前年十一月三日の文化の日に「学術文化振興のため」と勲何等かの勲章を浪曲師寿々木米若に授与されるようなお国柄なのである。

 原住民史観の確立

 「世の中かわった」とか「変革の時代」というが、変ってゆくのはどうも新しい方向へではなく、旧通りにひっくり返る事ではなかろうかとさえ近頃では危惧される。せっかく、「歴史」も、これまでの徳川史観の引きつぎでない、新しいものが真実として見つかりかけているのに、また講談的歴史に逆転の気味がある。

 たとえば、「徳川実紀」とか「徳川台紀」といったものは、かつては柳営の奥深くにあるだけだったから、たとえそれに、「神君家康公は三州岡崎に生れられた」とあっても一般民衆には関係などなかったし、講談がそれに合せて作られてもエンターテイメントだったから構わなかった。しかし、それが史料に逆戻りしては困るのである。

 さて今では芝居の台詞と思われているが、「生れは遠州浜松」という一言は、江戸時代には千金の重みがあったものらしい。

 といって、弁天小僧菊之助が豪かったというのではない。ちょんまげ時代の世では、「浜松生れ」というのは東照権現さまの事を意味していたせいらしい。なにしろ幕末までは、「そもそもこの駿遠の地は、東照大権現の垂迹(生誕)の処なり」といった銘の入った鐘が駿府城には吊り下がっていたし、家康の祖母源応尼をまつった静岡市の華陽院にあった家康真筆の額にも、「永禄三年五月に自分は義軍を、浜松であげて運をひらくことができた」と堂々とでている程である。

 だからして地方の木っ端役人などに対し、「おう、じたばたしやぁがるな。こうみえても、こちとらはな、生れは遠州浜松在‥‥」とやろうものなら、お上御威光に、うへえッと這いつくばってしまったものらしい。

 なにしろ浜松には幕末まで梅屋、大米屋、いたや、なべやの四軒の旅篭兼問屋があったが、ここには、土地のいい伝えでは、「お七里役」とよぶ民間の保安官みたいなのがいて、旅篭へ泊る旅人に、「てめえらこの地をなんと思っていやぁがるんだ。恐れ多くも浜松だぁナ」と脅し、荷物調べとか嫌がらせをしては、片っ端から金品をまきあげていたそうだ。

 だから三州岡崎城が家康生誕の地とされ、青線区域に接した岡崎公園よりの古井戸が、「竹千代さま産湯の井」となったのは観光ブームで、鉄筋コンクリートで岡崎城が再建された戦後のことであって、竹千代というのも家康ではなく、本当は二股で殺された岡崎三郎信康の事である

 この裏付けは寛永時代の<加藤図書資料>をみても、その真相は歴然とわかり得る

 なにしろ​徳川時代は、歴史などというものは一般には必要なかったから、将軍家お抱えの御用学者か、さもなくば、「名物」と称して、まがいの茶器を扱い商人が、その名称をことさらに列記した歴史書まがいを、カタログ代りに広めただけにすぎぬ。​

 ところが明治になっての富国強兵策で義務教育が始まり、学校で歴史を教えたり、今やテレビで歴史まがいのドラマまでやり出すようになると、いつの間にか家康は幻想化され、「生れは遠州浜松」ではなくなって、「三州岡崎」に変えられ広まってしまう。

 さて、家康一人の生れや素性などは、どうでもよいとして、困るのは明治以降、山路愛山、白柳秀湖、柳田国男らが取り組もうとして、はたせなかった日本原住民系の歴史の解明が、又しても消されかけていることである。

 かつての史観では‥‥明治二十年代にできた「正史」と称する「記紀」による日本歴史なるものも、今は岩波文庫に入っている新井白石の「読史余論」十二巻や林羅山の「本朝編年史」を定本にした。

 だから他の国では、政権の交替と共に史観も変わり、スターリン時代のものはフルシチョフにひっくり返され、それもまた、コスイギン政府に一変されてしまうものなのに、日本では上に頂く天皇さまが万世一系にわたらせられるからと、足利史観も徳川史観も、それそのままで戦前までは通用してきた。

 しかし実際にこんなことは有りえないのである。政権はいつの世にも自分に都合よく歴史を作ってしまうものだから、こんな事のくり返しでは砂上楼閣の歴史になってしまう。

 またこれまでの日本の歴史学のように、引用例証だけが第一主義で、自分では責任をとらずに、「こうした物には、かくかるある」と都合のよい個所だけ抜き取って援用し、なるべく先輩や恩師の学説にそむかぬように、憎まれないように自分の立身や保身に、「歴史を利用する」やり方では、とても本当の日本史など解明できないのではないかといいたくなるし、心配されもするのである。

 たとえば「樅の木は残った」の伊達騒動にしてからが、明治時代に、芝居の「先代萩」に迎合して上下二巻の、「伊達騒動実録」をだしたのが、字引きの「大言海」の著者の大槻文彦で、彼は、「文学博士」の称号をもっていたゆえ、「原田甲斐は、芝居の仁木弾正の原型だけであって、不忠不孝の大悪臣であった」ときめつけてしまうと、それが一般に、定説というものになってしまった。

 歴史畑では、明治、大正、昭和にわたってそれに異説をはっきりたてる者はなかった。

 だから山本周五郎の「原田甲斐忠臣説」が現われると、びっくりしもてはやすのである。

 しかし「樅の木は残った」の発端にしてもそれは、「殿様である伊達綱宗を遊里へ案内し、そのため二十二歳で隠居させられたのゆえ、不忠者として四人の手引きをしたと思われた家臣が殺される処」から始まっている。

 これでは講談と同じでしかない。つまらない話である。

「綱宗が吉原へ通って高尾太夫を身うけしたが、云うことをきかぬ。ために船中で、可愛さあまって憎さが百倍と吊し斬りにした。だから大名としては素行が不良すぎると、二十二歳の若さだが、隠居させられてしまった」という話と、山周さんのは、女郎の名が、「おかる」と変っているだけのことである。

 しかし吉原という処は、マンツウマンならぬマンツウチンの営業地帯である。そして高尾太夫はそこの女性である。私は、「酒屋で酒を売らぬ店があるわけはなく、セックス屋でセックスを貸さぬ女がいるわけはない。どうして高尾が誰にも入れさせていた部分貸与を綱宗だけ拒み、あくまで貞操を守って殺されてしまうものか?」

 「高尾はあまりにも商売柄そこを使いすぎ、オーバーホールでもしなくては綱宗といえ、そこは使わせられなかったのではあるまいか」など考えたが、しかし経験者の女性にきくと日に何十回も用いては、腰骨が痛んで背中が曲がらなくなることはあるが、「そこ自体」は、開けよさらば入れられんと、新訳のコリント書にでてくる聖なる教えの、「アビダラの門」のごとく、潜りぬけは自由だという。だから男のように過度に使いすぎたから駄目ということはないらしい。

 となると高尾を斬ったり、赤線地帯へ入りこんだりしたのが、伊達綱宗が二十二歳で隠居させられた原因にはならなくなる。

 勤王思想をうけつぐのは?

 「週間現代」に連載した「実説樅の木は残った」で、この真相を、「これまでの説では伊達安芸と兵部の党派争いとするのが、最も新しく正しいものとされているが、安芸は伊達領内で二万二千石の大禄をはんでいた。それが谷地十町歩位の境界争いで己が江戸表へ訴え出たのでは、一つ間違えば二万二千石さえ失いかねないのだから、それは冒険にすぎはしまいか」

 そして、「今でも、うちの会社は脱税していると投書したり、公にする者がないではないが、それらは会社をやめさせられた腹いせか、しっぺ返しであって、常識からしても在職中の者が会社を潰すような真似はしないものだ」という観点からして、私は、「党派争い」という見方はあまりにも、卑近すぎはしないかと考えざるをえないのである。

 そこで念のために、「皇室典範」をみて、当時の天皇さまの御名をみると、「後西天皇」であらせられる。徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝の中宮として入内し、うみ奉った女一宮が七歳のとき。

 恐れ多くも徳川の権力をもって後水尾帝は退位させられ、「明正帝」とそのまだ七歳の頑是なき御方さまを即位させ次の御光明帝さまの次が、この非徳川系の後西帝であらせられる。

 だから、ようやく徳川系の帝でなく即位されたのが、この天皇さまということになる。

 ところがこの天皇さまも伊達綱宗が二十二歳で隠居のあと、すぐ後を追うごとく退位。

 次なる霊元天皇さまに慌ただしく御位を譲ることを余儀なくされ遊ばしている。

 もちろんすべては徳川家のなすところで、二十七歳のお若い天皇さまが、まだ十歳の霊元さまとご自分から代わられるわけがない。

 そこで後西さまの御生母をさぐると、「櫛笥(くしげ)左中将隆致(たかむね)卿」の長女で御匣局(みくしげのつぼね)隆子とある。

 ところが、その御方がのちの後西さまである良仁親王が生まれた頃は、徳川系の天皇の御代だったから、左中将一家は生活に窮していたらしい。

 そこで末の姫君の貝姫が遥か東下りして、伊達政宗の倅忠宗の側室となられた。その御子が綱宗なのである。つまり綱宗と後西天皇は従兄弟の御血縁、という事実がここに浮かび上がってくる。

 さて吾々は幕末になって初めて、東山三十六峯草木もねむる丑満刻の剣戟の響きにより、勤皇の志士が現われ討幕運動が起きたごとく錯覚しがちであるが、いつの世にも反体制はある。

 反徳川運動、つまり討幕運動も、「島原の乱」とか「由井正雪の謀叛」といった徳川史観の表現で伝わっているから、こんがらがって判らなくなるが、これとてありていは、討幕運動に他ならない。

 すると、それまでの徳川系の天皇とは違う後西さまが、伝奉の園池中納言宗朝に命じ、「奥州の伊達六十二万石の伊達綱宗が、従弟に当るとは心強いことである」

 秘かに討幕を策されたとしても不思議ではない。ところがこれが京所司代に新任した牧野佐渡守親成の探るところとなって、小石川堀工事中の綱宗は突如として謹慎処分で隠居。

 天皇さまも御位を追われて譲位となった。

 丁度そのころ、仙台評定役から江戸勤め家老として出府してきたのが原田甲斐である。

 山本周五郎説や大槻文彦説のように、女郎買いや高尾太夫を斬った咎で、隠居させられたような綱宗なら別だが、本当は、「討幕運動のお咎め」なので、甲斐は正宗の末子の伊達兵部と共に、秘かに、「勤皇運動」を企てたらしい。

 そこで佐幕派の安芸がこれは一大事と訴え出たのが、「伊達騒動」の真相であろう。だから事が事ゆえ幕閣では、甲斐と安芸を始末して口封じをし、兵部は殺さず流罪にし、あれだけの大事件なのにウヤムヤに終わらせているのもこの為なのである。

 これは弾左衛門家で芝居を監理していたから、「先代萩」で、原田甲斐を、「仁木弾正」という名にしている点でも、それとなく、この真相を暗示している。

 というのは前々章にも書いているが、弾正とか弾左衛門といった弾正台から転化した名称は、原住系のボス称号だからである。

 さて、かつて山路愛山、柳田国男らは、「原住民というのは天孫系に征服された俘囚の裔だから、反体制の民であろう」といった徳川史観に誤られて、それを解明することは反体制運動にもなろう、というので遠慮してしまい、挫折して民俗学へ迂回してしまった。

 だが、実際は、新田別所の新田義貞や楠木正成といった建武の中興の連中を引例するまでもなく、原住系たるや天皇教信者に他ならず、新田別所から後に高山彦九郎、楠木の河内よりは天誅組がでている。

 なのに、「天孫系の中には皇位を窺った不敬な者もいたが、原住系はこれみな天皇一辺倒だった」ことが、徳川史観では隠されていたので、これが間違えられてきているのであるらしい。
 
 つまり大東亜戦争でアメリカに負けると、素直に潔く一度もレジスタンスをしなかったのが、今も原住系が多い日本人なるものである。

 幕末まで天皇さまを押さえつけようとした徳川政権から見て、原田甲斐ら原住系は、これことごとく悪臣であり逆臣であったにすぎないのである。

 また、これが起因となって伊達騒動から十六年後に、日本原住民系の弾圧が始まり、やがて浅野の刃傷事件となるのである。

 (八切史観ではないが、皇室には南北朝交代説があり、徳川家康は、これを知り、水戸藩に、南朝の跡継ぎを囲らせていたという説もある。それが幕末に明るみになり、長州の囲っていた跡継ぎとの皇室を巡る孝明帝北朝の継承問題となり、外国との貿易独占を続けたい幕府の思惑と絡み、長州征伐となったようである。そこから、当初はロシアや米国の貿易開港などだが、外国勢力の貿易拡大による英仏の介入沙汰になり、仏は幕府支援、英は薩長支援となり、内乱勃発の状況となり、ドイツなどの諸外国も介入しはじめ、どこかの植民地となりえたので、徳川政権が貿易独占をやめて、外国嫌いの孝明帝も崩御し、大政奉還したというわけである。その後、明治帝は英国ガータ―騎士団員になる。勝海舟は、貴族がなくなって、完全な四民平等になってから、議会を開くのを、明治の元勲たちと決めていたが、伊藤俊輔博文が独断で、憲法と議会を開いてしまったのを、海舟座談で告白している。海舟は、日清日露戦争に猛反対している。伊藤はロシアに盗られる前に朝鮮を盗れという強盗的な判断だったようである。だから結局、伊藤は暗殺されてしまうわけである。)





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Last updated  2023年12月26日 21時14分38秒
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