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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年06月04日
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カテゴリ:神秘体験空間
人はなぜ、地球から外に旅立とうとするのだろうか? 人はなぜ空を飛ぼうとするのか? ガガーリンは地球は青いと言ったが、その青い地球を自分の眼で確かめたいと思うのはなぜだろうか?

そのような夢は、ドラえもんの世界では、どこでもドアと、タケコプターがあればできる話で、更にはタイムマシンで、時空を超えて、自分の現在の境遇や環境から脱け出し、いつでも旅に出られる。そのような漫画の世界が、令和の時代になって、ドラえもんの四次元ポケットから出された道具の半分くらいの夢が現実のものとなっている。

ドラえもんですでに実現された「秘密の道具」35 | CHANGE-MAKERS


誰しも、空を飛ぶ夢をみたことがあるだろう。まるで、地球の上を人工衛星にでも乗って移動しているような夢である。いまでは、グーグルマップで、数年前の地球を空から旅行できるし、ドローンで空からの映像を見れる時代になっている。これらは、人間の未来像で、シュタイナーによれば、地球人が木星人になったときの、いわば仮想現実のヴァーチャルリアリティによる予行練習というのである。そして、現代の地上の地球人に先行しているのが、渡り鳥の集合自我の種族霊であるという。鳥の自我はまだ個々の鳥の肉体に宿っていないので、個々の鳥を、手足のようにして操り、渡り鳥にしているという。

それはまるで、人間がシュミレーションゲームで、駒を動かすのと同じで、例えば、将棋の駒を動かすように、将来、木星人となった人間は、自分の肉体を、手足のように、地球上のどこでも動かすようになるという。既にそれはネット上で可能になっている。いずれは、肉体を霊化して世界中を瞬時に旅するようになるだろう。実際に、人間は睡眠中に行っているし、死後、物質界に別れをつげるときに、お世話になった人たちを巡るのも、この最後の旅行である。

人智学では、人間は寝ている時に、肉体とエーテル体を残して、いわば霊魂の自我とアストラル体は、物質界から、霊界に出ていっているという。もし、シュタイナーのように霊眼があれば、あそこにエーテル体と肉体が横たわっていて、自我とアストラル体の自分は、ここにいるというのが、覚醒意識でわかるらしい。だから、ガガーリンのように、地球は青かったと言うように、自分の肉体は赤かったとでもいうかもしれない。あまりに遠出してしまうと、肉体が見つからずに、帰ってこれなくなるかもしれない。

現代人は、物質界でしか個人的な覚醒意識をもてないので、ガガーリンのように、宇宙船にでも乗らないと、外から地球の姿をみれないが、霊眼を獲得すれば、睡眠中に、いつでも肉体を抜け出して、世界旅行ができ、地球を巡ることもできるようになるという。考えてみれば、輪廻転生も、その延長上にあるが、自分ではなく、自分が前世で損失を与えた他人になりかわって生まれてくる点が、大違いでもある。

我々地球人が、地球で修行をする目的は、寝ている時に、覚醒意識の物質界から出て、空から、潜在意識で、地球を外観しながら、地球の成長を見守り、地球の一員として、地球と共に生命を育み、生活環境を日々新たに整えることで、同時にそれは、自分の成長ぶりを、交互に覚醒意識と潜在意識で確認し、俯瞰でみることでもあるらしい。

つまり、地球人の課題は、地球と共に、人間に与えられた自我を日々新たに育てることで、自我をバランスよく育て、自我を霊我にまで高めると、地球人は、地球を空から見守るような木星人になれると、シュタイナーは預言している。

地球人の自我は、宇宙人との交信の、叡智への窓口のアクセスカウントみたいなもので、いまはまだ物質界で、ヨチヨチ歩きをし始めた赤ん坊の、物質界で、あれこれの欲望を満たそうと必死になって、もがき苦しんでいる幼児期といえるかもしれない。ようやく個人的な自分という自我に目覚めた初期の段階にある。動物にはまだ、この人間の自我の、個人の意識はない。動物はまだ集団のなかの一員で、動物種の族長の手足でしかない。動物でも家畜のように、人間の自我に育てられた動物は、種から分離し、個体の自我をもつようになる。

動物園の動物が野生動物とは異なる習性をもつようになるのは、種から独立した人間の自我が、その動物を育成したためである。先日、ロシアの軍事兵器として育てられたイルカが野生に還れずに、人間の環境団体に保護されているのを、BS番組でみたが、本来は、人間のエゴではなく、地球全体が共生平和のバランスの基に、あらゆる生物種が自由に独立して、進化発展していくのが、地球の理想であり、地球を楽園天国にするのが、地球人の役割で、宇宙から人類に与えられた使命であるともいえるだろう。

地球の環境を通じて、地球人である人間には地球を理想の環境とすべく使命が、宇宙から与えられているのだが、残念ながら、その使命にすら気づかずに、エゴ丸出しで、個人的な野望を遂げるのに必死で、ヨチヨチ歩きし始めた赤ん坊が、幼児になって早熟にも、科学知識を学び、物欲に目覚めて、非行少年に走ろうとしている現状にあるのは、この国の愚かな政治家で明らかだろう。この国の詐欺師ばかりの政治家をみれば、将来が暗く、危ういことだけは、環境破壊からも、わかるだろう。

天変地異や自然災害が頻繁に起こるのは、地球がバランスを失っている証拠で、遡って原因を調査すれば、それは人類の環境破壊に起因するのがわかるはずである。そのほとんどが、権力者などによるエゴにある。過去の戦争や、核兵器実験が、現代の環境破壊を生んでいるわけで、いま戦争破壊を起こすと、それは将来の天変地異や自然災害を起こすことにもつながっていくのである。だから権力者は現在の行動が将来にまで影響を及ぼすのを、未来永劫にまで罪を背負うのを、自覚しなくてはいけないわけなんである。

環境破壊者は、輪廻転生でまた地球に還ってこれればいいが、それでも地球では最低の暮らしが待っているが、地球よりも酷い環境の星に送られて、一からやり直しさせられ、それは本人の希望でもあるが、過去に自分が仕出かした罪は、自分で拭うしかないわけで、というのも、どんな霊魂も、自らのなかから輝いていたい、という生命力への希望があるからである。

エマニュエルスウェデンボルグによれば、どんな霊魂も、この世で暮らしを良くしたいと思うように、あの世の霊界でも、少しでも天国に近づきたい、と思うようである。それは欲望というよりも、本能というべき、人智学的宇宙進化学でいう、「憧れ」といえるかもしれない。

エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia

エマニュエル・スウェデンボルグの「霊界」3 - 有限会社中央アート出版社 (chuoart.co.jp)


スウェデンボルグの霊界を読めば、悪という存在がよくわかる。その特徴をわかりやすくいえば、視野が狭く、「自分さえよければいい」という我儘な観点の持ち主なのがわかる。というのも、自分が常に正しく、善だと思い込んでいるからで、エゴ丸出しの存在といえるだろう。もっとも、この特徴は、この国の政治家でも明らかだが。

つまり、悪は視野が狭いために、自分を超えた存在を知る余裕もなく、逆にいえば、自分以外の存在に怯えて暮らすしかないわけで、そのために自ら孤立化し、地獄に堕ちていく。だから、視野を広くするためには、過去の自分を抜け出す必要があり、だから、悪には自分への死が必要なわけである。自分を外側から見る視点が必要なので、自分を殺さないといけないので、そのような悪人には、死後、「自分は正しい」と思い込んでいる偽善者が現れるので、禅では、「釈迦に会えば、釈迦を殺せ」、と言われる由縁なんである。

どんな人にもエゴがあり、死後最初に出逢うのは、このエゴの存在で、偽善に着飾った自分のなかの悪であるという。表立って、自分には物欲がないという人でも、本心には、憧れがあり、その隠された虚栄心や名誉欲から、美女や美男と寝てみたいなどと思っているはずで、死後に、それが露わになってみて、はじめてわかるわけなんである。そのような人間の裏表について、スウェデンボルグの霊界は面白く書かれ、特に教訓的なのは、宗教界のリーダーたちが、地獄に堕ちている様子が書かれている点である。

自分が正しいと思わせている存在が悪魔で、そもそも、叡智には果てがなく、正しいと思った途端に、正しくなくなるからである。我々地球人は、視野をより広げることしかできないので、正しいと思った時点で、視野が固定されてしまい、その固定された視野に騙されてしまうからである。つまり、時間を固定してしまい、成長を止めてしまうのである。この時間感覚の成長を止めるのを再び回復するために、人間の自我には死が必要で、更なる輪廻転生による時間感覚の変更が必要なのだろう。

令和の地球人にとっての課題が、この固定した時間の概念を遡る事にある。少なくとも、人類に人種ができる前の、人種や民族や文化を超えて、それが無かった時の時代にまで遡る必要があり、それが故郷喪失者と呼ばれる状態である。

人智学の時間の概念によれば、時間は生きている存在そのもので、時間霊という名の時代霊のアルヒャイという人格霊のことで、権天使である。だから、時間とは、人間には不可視の存在で、霊視を獲得しないと感知できない存在で、それも、権天使は、人間よりも3つも位階が上位の存在なので、時間を実際に感じるには、アートマと呼ばれる肉体を霊化した器官まで高め進化する必要がある。この国の古来の、陰陽師が、霊能力で、時代霊の権天使と交信し、暦つくりを担当していたのは、割と有名な話かもしれない。

権天使と交信できるまでは、各自が外的な物質環境から、時間感覚を、大体は太陽光による反射などの陰影から間接的に身に着けているわけで、睡眠中にその修正がなされるわけなんだろう。物質界の歴史でいえば、ニュートンが、いまでいう時間をデュレーションと呼んで、本来は、不可視な時間を、物質界での物体の運動から、目にみえる形で示したのが、人間の進化に対する功績というべきかもしれない。そして、アインシュタインにより、より詳細に、光の特性の光速度により、相対的な、個別の内面的な時間の統合概念が生まれ、物理法則は、慣性系全てで保存するという物証を得たが、量子力学の観測問題として残っている。一般相対論と、量子力学の整合性がとれないのは、どちらも生命問題を度外視している時間の概念のせいである。物理法則の観測者が人間という生命体であるのを考慮に入れていない。

絶対時間と絶対空間 - Wikipedia


人間一人一人の時間の感覚が異なるように、人生も異なっているわけで、勿論、物質界で共通の目的を遂行するには、各自の運動もある程度、共生分担しないといけないわけで、各自の時間感覚の調和や調整が必要なのはいうまでもないが、本来の時間の意味は、人類全体の進化に必要な地球の環境づくりにあり、それは時代霊が指導し、指揮するものなので、人類の手にはなく、いかに自主的に自由に応じるかである。現に、時代の価値観にそぐわない老害は改めないと、捨て去られていくだけなんである。

物理学が説く時間は死んでいるので、個人の物質的な死による再生が必要だが、実際の時間は、時代霊と共に、生きているのである。ニュートン力学の創始者とされたニュートンは、恐らく、時代霊のことをデュレーションと呼んでいたようにみえる。ウイキで、該当の部分を以下に引用する。

             ☆       ☆        ☆

ニュートンによれば、絶対時間と絶対空間はそれぞれ何物にも依存しない客観的実在の一部である。
絶対的な・真の・数理的な時間とは、外部と一切かかわりなく、おのずとその本質に基づいて一律に流れていくものである。これをデュレーション(英: duration)という別名で呼ぶ。相対的な・見かけ上の・日常的な時間とは、運動の観察を通じて得られる、デュレーションの実用的かつ外的な物差し(正確であれ、不正確であれ)である。一般に用いられているのは真の時間ではなくこちらである。 ...

             ☆       ☆        ☆

ニュートンの「何物にも依存しない客観的実在」というのは、おそらく、時代霊のことで、時代霊の一部を、デュレーションと呼び、これの相対的な日常の感覚を、時間としているわけなんである。だから、アインシュタインは、この相対的な日常の感覚を、つまり物質界での時間感覚を、光速度で定義づけたことになるだろう。しかし、それ以上は、物質界の可視化世界では言及できないので、ボーアの原子模型に対して、「神はサイコロを振り給わず」といって、確率統計の量子力学では、時間に言及不可と説いたわけなんである。

ボーアの原子模型 - Wikipedia


ニュートンが説いた絶対時間や絶対空間の存在の、時代霊アルヒャイの存在を直接に感知するには、現在の地球人である人間が、次の木星人となり、更にその次の金星人となるまで進化する必要があるのを、人智学は解き明かしている。そして、現代は、ミカエルの時代と解き明かし、ミカエルの時代が終わると、2400年頃に、次の時代霊となる、かつて紀元前200年から、紀元150年頃まで君臨していたオリフィエルに、更なる人類の進化のために、時代が引き継がれると預言している。そのとき、同時に、悪魔アーリマンの受肉が、白人種らしいが、現実的になるとも、預言している。

オルフィエルの時代までは、まだ数百年もあるが、人智学によれば、時間は生きた存在で、いわば時代感覚に似たモノといえるだろう。昭和には普通に行われてきたことが、令和にはモラルハザードで、パワハラで、ブラックに感じられるのも、それだけ人類の叡智が進化し、視野が拡がっている事でもある。つまり、人類に叡智をもたらし、この時代の流れを司っているのが、時代霊の存在で、人類進化の担い手の役割なんである。

人智学では、時間は時間霊の持ち回りで統括されていて、だから、時間は周期みたいに、循環するから、歴史は繰り返す、とローマの歴史家クルチュウス=ルーフスにより、格言にまでなっている。というのも、人類は、繰り返される歴史を乗り越えて、人種や、民族や、文化から、自らを故郷喪失者となって、解放しないといけないからである。それはいわば、ハードルを飛び越える障害競走といえるかもしれない。

人種や民族や文化は、人類がそれを飛び越えて、進化するために必要な障害でハードルなのである。人種や民族や文化をなくすために、ある特定の人種や民族や文化に、人間は産まれてくるわけなんである。それにいつまでも拘っていると、執着し、出家できずにいると、さまよえるユダヤ人になってしまう。永遠に自分は選民だと思いあがる地獄の冥界の王になってしまう。現に悪魔の存在が、地球紀の前の月紀を落第した霊魂たちなんである。ハードルを乗り越えることができずに、埋没してしまった存在たちなんである。

スウェデンボルグが霊界でみた地獄に堕ちている宗教界のリーダーたちである。そのような地獄に堕ちるリーダーとならないために、ミカエルの時代に必要な時間の概念というべき心得を以下に紹介する。

            ☆        ☆        ☆

ミカエルの時代~ルドルフ・シュタイナー | ドームハウス日記 part (lifedesignlaboratory.com)

『どんなに美しく、価値あるものも新しいものを用意するために死んで行くというのが、ミカエルの季節の気分なのである。そのようにして空きができた空間に未来的なものが入ってくることができる。逆に過去の栄光、美しい伝統を頑なに守ろうとする態度の中に人を惑わせる龍が忍び込む。過去の財宝を捨てることができない者は、ミカエル的な道を行くことは出来ない、というのである。』
 (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか?』より)

            ☆        ☆        ☆

いま巷には老害と呼ばれる晩節を穢す人が跋扈しているが、それはミカエルの時代に背く態度なのがわかる。過去の財宝を捨てることができない人は、次の進化段階に進めないわけなんである。それは醜悪な裏金議員をみても明らかである。ミカエルの権天使の特徴というか、権力とは、過去の栄光を捨てる能力なのである。だから、現代の権力とは、権力を捨てる能力のことなんである。仏教的にいえば、喜捨にあたるだろう。権力に居座るのはルシファーらの堕天使で地獄に堕ちるわけである。武道の、居つくな、である。

喜捨 - Wikipedia

『柔術のひみつ』第一回「居つく」 - 柔術のひみつ (fc2.com)


では、次のオルフィエルとはどういう特徴の権天使なのか、実は、過去に、このブログでも転載紹介したので、再度紹介する。

来るべきオリフィエルの時代-天使長(時代霊)交代のとき | シュタイナーから読み解く神秘学入門 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

来るべきオリフィエルの時代-三千年紀初頭(AD2000年)のアーリマンの受肉 | シュタイナーから読み解く神秘学入門 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)


オリフィエルは、過去においてリーダーシップを発揮したことがある。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れた時のことである。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上の全てを支配した時代であった。その時、人類を揺さぶり、進化させるために、恐るべき犠牲が支払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。

 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。人類の歴史における最も暗いこの時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AD)104年後に終わり、アナエルの統治に取って代わられた。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治していた。

 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。

 この文脈から考察すると、物質界を崩壊に向かわせ、その物質的な外見的なベールを取り去って、中身の内面的なエーテル界を露わにさせ、恐らく、エーテル体で活動するキリストの存在を、世に示す存在に思われる。ミカエルは、人間に物欲を放棄させることで、時代を司るが、オルフィエルは、かつてのローマ帝国が滅んだように、物質全てを崩壊させて、無に帰す事で、人間の底にある、自分で自分を救う本性に目覚めさせるように、キリストと共に、人間を導いていくのだろう。

来るべきオルフィエルの時代の準備のために、ミカエルの時代に物質を無に帰するための人間の自我の死を知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

            ★       ★       ★

 死の意味を、別の面からアプローチする。例えば、周囲の、生命とは別領域の存在、例えば、「鉱物は死ぬか?」考えてみる。

「鉱物の死」は、神秘学者にもあり得ない。というのも、例えば、「切り取られた爪が死ぬ」と言うのと同じだからである。爪は、単独で生きているわけではない。爪は身体の一部で、爪を切れば、身体から切り離され、生命から引き離される。

生命が死ぬのは、本体が死ぬときだけである。同じ意味で、人智学でも、鉱物は死なない。というのも、鉱物は、爪が、身体という生命体の一部であるように、地球という大きな生命体の一部に過ぎないからである。

鉱物が破壊され、死んだように見えても、それは、爪が切り取られ、身体という生命体から切り離されたように、大いなる生命体から切り離されただけに過ぎない。鉱物の破壊は死ではない。というのも、鉱物は単独で生きているわけではなく、むしろ、鉱物を構成単位とする、地球という、より大きな生命体のなかに生きているからである。

 また、植物の本性について、以前の講義を思い出せば、植物もまた独立の存在でないのがわかるだろう。植物もまた地球生命体の構成要素だが、植物は、鉱物とはまた違う生命体の一部となっている。

人智学的観点から言えば、個々の植物の生命に言及する意味はなく、むしろ、地球生命体について言及すべきだが、それは、植物が、この地球生命体の全面にわたり一部になっているからである。植物の死についても、指の爪を切るのと似ている。

「指の爪が死んだ」とは言えない。植物も同様である。何故なら、植物は、地球全体の、より大きな生命体に属しているからである。地球は1つの生命体である。それは春になると眠りにつき、地球のエーテル体でもある植物を、太陽に向けて送り出す。秋には、目覚めて、エーテル体である植物を、地球の自我の精神のなかに回収するが、その行為は、植物の種子を、地球の自我の存在内に受容することで遂行される。

植物を個の生命体として見るのは無意味である。個々の植物が枯れても、総体としての地球生命体は死なないからである。同様に、人間の髪が白くなっても、死にはしない。白い髪を黒くできなくても、死ぬわけではない。

勿論、人間の髪は、植物とは異なるが、植物と地球の関係は、髪と人間の関係に喩えられる。植物が枯れても、地球が死ぬわけではない。枯れた植物は、地表だけの生命過程である。植物は枯れても、植物が死ぬわけではない。

 動物もまた、人間の死と同じ意味で、死ぬとは言えない。というのも、個々の動物は、生命の真の意味で独立しておらず、動物の本体の集合魂が、超感覚的世界に存在するからである。つまり、動物の真の存在は、アストラル空間上において、集合魂として存在している。個々の動物は、その集合魂から濃縮され出てくる。ある個の動物が死ぬと、集合魂から切り離され、また別個の動物に取って代わる。

 だから、鉱物、植物、動物界での、死にみえるのは、見かけ上のもので、死のニセモノに過ぎない。現実には、人間だけが死ぬ。それは、人間が、個別性を発達(進化)させ、肉体のなかに、自我が下降するまでになっているからである。人間は、肉体のなかで、地上で独立した存在を担うことで、現実(真実)に生きている。だから、死が意味をもつのは、地上に独立して生きる人間だけである。

 この死の真相を把握すれば、「人間だけが実際に死を経験できる」と言える。





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Last updated  2024年06月05日 09時16分40秒
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