カテゴリ:カテゴリ未分類
先生といって、僕の家の近所にあるという私塾で弁をとっていたんだ。……ああ、同じ姓だが親族では無いよ」
吉田は己のことも交えつつ、ぽつりぽつりと話し始めた「しょうか、そんじゅく……」
桜花は独りごちる。失った記憶の片隅に置かれていた言葉なのか、懐かしいような響きだった。
「そう。そこで晋作とも出会ったんだよ。彼は殿様に仕える名家の出でね。本来、僕のような士分ですらない身分の者と肩を並べて学ぶことは無かった」
「高杉さんって、子宮環 そんなにすごい人だったのですね……」
言動の節々から自信を感じたのはそのせいでもあるのか、と一人で納得する。
「ああ、呼び捨てなど許されないよ。出会った時は高杉様と呼んでいたっけなぁ……。だが、松陰先生が勉学や志の前には身分など関係ないと教えてくれたから、いつしか僕らもそのように思うようになれた」
何百年もの間、家の階級や身分に縛られてきた時代において、その考えを持った松陰は前衛的な人間であるといえるだろう。
「本当にあの頃は楽しかった……。口下手な僕でも、先生は何一つ叱ることなく意図を汲み取ろうとして下さった。僕という人間を、親以外に初めて肯定してくれた大人だったんだ……」
過去を慈しむように目を細めた吉田の横顔は、幼い少年のように見えた。それほどの人間ならば、いつか会ってみたいと胸が高鳴る。
「その、先生は今何処に…………?」
それが失言だと気付いたのは、吉田の瞳に翳りを見た後だった。先程『先生にもう一度会いたい』と言った時点で察するべきだったと後悔する。
「もう、この世には居ない……。五年前、江戸へ送られて死罪となってしまったからね」
「……あ、あの…………。ごめんなさい……」
つらいことを思い出させてしまったと桜花は目元を伏せた。
だが、吉田はそうじゃないと首を横に振る。
「問題は僕にある。……罪人になった先生と関わってはならないと、両親から強く言われて逆らえなかった。先生は何度も文を下さったのに、僕は見て見ぬふりをした。……江戸へ送られる時ですら、最期だと分かっていたのに垣根から覗くことしか出来なかったんだ」
人との繋がりは損得では無いと教えられたのにも関わらず、結局は損得勘定で考えてしまったのだと寂しげな声で言った。
桜花は慰めの言葉が思い付かず、黙り込む。下手なことは言えなかった。「……僕はね、先生の弟子だったからという理由で士分となることを許されたんだ。あの時、あの門を叩いていなければ……ずっと萩の小さな村で畑を耕す人生だったのかも知れない。……だからこそ、僕は恩を返す為にも志を貫かねばならないんだ」
本当は此処まで吐露するつもりは無かった。ただ師の素晴らしさを語り、その弟子であることを誇らしいとだけ言おうと思っていたのだ。
──何故じゃろう。この人には聞いて欲しいと思うてしまう。
高杉にも、久坂にも、親ですら吐き出したことの無い思いだった。あまりにも桜花が真っ直ぐで穢れのない澄んだ目で見るものだから、つい零れてしまったのだ。
気付けば黙り込んでしまった桜花の顔を見やる。何処か神妙な面持ちであり、先程とは違った雰囲気に違和感を覚えた。
不意に視線がかち合う。その目を見詰めれば見詰めるほどに、引き込まれる心地になった。まるで、この世の者とは思えぬほどに冷たく、けれども優しいそれにゾクリとする。
「……貴方は、のですね」
その言葉に、吉田は瞳を丸くした。
それほど的確な言葉は他に無いと思えるくらいに、かちりとハマる。
──そうか、僕はゆるされたいんじゃ。
突然師の言いつけ通りに旅へ出ようと思ったのも、同志達のために奔走しているのも。師の模倣と言わんばかりに身分の差を厭い、屠勇隊を作ったことも。
全て、いつか お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.11.28 19:04:13
コメント(0) | コメントを書く |