覚えてますか?「葬式ごっこ」事件
「いじめ」とよばれる事件は時々問題となるのだが、新聞種になるものの多くは、むしろ犯罪として処断すべき事案で、それを「いじめ」と呼び、学校の問題、教育の問題ととらえるから話がややこしくなるように思う。旭川の事件など陰惨極まるもので、あれで警察が動かなければ、とてもじゃないけど、安心して子供を公立中学になどやれないレベルだろう。犯人が一定年齢未満となると、警察は妙に腰がひけたようにみえることがあるが、被害者の痛みは犯人の年齢には関係ない。ただ、こうした世を騒がす「いじめ」の中には、個人による犯罪というよりは、集団の底知れない悪意を感じさせるものがある。昭和50年代に中野区のある公立中学で起きた「葬式ごっこ」事件である。不良グループに普段から暴行や強要の被害を受けていた少年に対して、クラス全員が「葬式ごっこ」を行い、線香や花まで用意したという。衝撃的だったのは、この「葬式ごっこ」に担任はじめ4人の教師が関与し、安らかに…とかなんとか追悼の寄せ書きを書いていたことである。少年はその後まもなく祖母のいる岩手県まで行って自殺した。性善説、性悪説というのは古来より議論になっているが、人は大きな集団になればなるほど、普通の人でも残酷になりうるところがあるのかもしれない。葬式ごっこに加担した教師は一人が諭旨免職になっただけで、行為の重大性に鑑みると軽いとしか思えないし、もちろん誰も刑事処分には問われていない。まあ、こうした行為は刑事責任を問えるものでもないし、そのあたり、平成になって大きな話題になった愛知県の公立中学で起きた一人の生徒に対する集団暴行恐喝事件とは性格が違う。葬式ごっこに参加した教師にしても生徒達にしても、たぶん、その後は罪悪感とは無縁の平穏な人生を歩んでいることだろう。そんなものである。まあ、何がいいたいかというと、人は個人、あるいは特定の友人仲間といるときよりも、一クラス、一企業、一国家といった大きな単位でいるときには、普通の人であっても罪悪感が薄れ、けっこう残酷なことをやるのではないか。みんながやっているんだ、おれ一人だけが悪いわけじゃない…というおきまりの論理が顔を出す。だから人間は怖い…といったところか。