給付型奨学金が世の中ではさもよいことのように喧伝されている。
こうした風潮に便乗して、政党の中でも給付型奨学金の創設あるいは拡充を主張しているところもある。
しかしこの給付型奨学金というのはそれほどよいものなのだろうか。
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日本には4年制大学は700もあるという。これだけでも驚きなのだが、このうちでまともに入試競争が成立している大学は、数でいけば半分もないように思う。給付型奨学金というが、その原資は税金である。その限りある資源を投入する必要のある大学というものは、700のうちのほんの一握りではないか。
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こうした議論で結局なにが問題なのかといえば、「優秀な人間が家庭の事情で進学できない」ということであろう。ならば、優秀なのに貧困故に進学できないという人が現実にどのくらいいるのか、いるとしたら何が問題なのかについて考えてみる。現在でも、国立大学の多くは授業料免除という制度を導入しており、低廉な住居費の学生寮も完備している。ならば、こうした国立大学の学生について、本当に貧しい家庭の者については、授業料免除の上、学生寮に住んで暮らしていけるだけの給付を行なえば、十分に勉学に励むことは可能である。その上で、更に傑出した学生については、大学毎に独自な奨学金給付を行なえばよい。給付型奨学金という制度をもし作るとしても、それは万人のものではなく、限られた優秀層が家庭の経済的事情で進学をあきらめなくてもすむようにするものでなくてはならない。
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優秀層ならぬ凡人層でも給付型奨学金を望む人はいるかもしれないが、今日では大学進学自体にはそれほどの価値もないことを受け入れた方がよいのではないか。相模原の大量殺人犯も、4年間某大学で高い授業料を払い続け卒業している。そうでなくても、4年間授業料を払い続けて卒業しても、まともな就職ができないなんていう話は珍しくない。4年間わけのわからない講義を高い授業料を払って聞くくらいなら、海外に語学留学するという途もあるし、手に職をつける方がよいのではないか。もちろん、スネをかじらなくても、ワーキングホリディのように働いて語学を身につけたり、見習い職人として技芸を習得するという選択もある。なにも「大学」だけがすべてではない。