オウムの死刑執行に署名した上川法務大臣の「胆力」が話題になっているらしいが、上川大臣にはもう一つふれなければならないことがあるように思う。それは、法務大臣に就任する前から、犯罪被害者対策にとりくんできたということである。死刑執行への署名は「胆力」だけの問題ではなく、犯罪被害者によりそう目線のようなものがあったのではないか。そしてもう一つ忘れてはならないものは死刑執行は法務大臣だけで行うのではなく、それ以前に求刑をした検事がいて判決をだした裁判官がいた。最後の執行の決裁は法務大臣が行うにしても、それは裁量と言うよりも法律では義務となっている。法務大臣一人が死刑を決定をしたかのような論説はそれだけでミスリードのおそれがある。
それにしても…と思う。
わからないのは教祖はともかく実行犯の心理である。
積極的にサリンを撒きたかった者はいなかった。三つの袋を引き受けた実行犯でさえ「他がいやがることを自分が進んで引き受けようとした」のだと言う。もちろん「超能力」体験が強烈な契機になったのは想像できるのだが、そこに宗教にはまる動機がなければそれも説明しづらい。いったい彼らにとって、なぜ宗教が必要だったのだろう。
人が宗教を求めるとき…それは多くの場合、人生の不条理にぶつかったときだ。
病気、災難、事故。そうしたものは突然理由もなく襲ってくる。なぜ自分だけがこんな苦しまなければならないのだろうか。なぜ自分だけが不幸なのだろう。そう思ったときに回答を与えるのが宗教のように思う。そしてその回答は、教団に金を出せば苦しみを脱するというような現世利益的なものから、もっと深淵な哲学のようなものまである。オウム教団を考えた場合、教祖はたしかに不条理な運命の下に生まれてきた。なんども世の中を呪ったかもしれないし、宗教にも救いを求めたかもしれない。信者の中にも様々な境遇の人がいて、自らの不条理な境遇に対する回答を宗教に求めた人もいたのかもしれない。しかし、実行犯や幹部になった有名信者のかなり多くはそうした不条理とは無縁そうに見える。
だから本当の疑問は「なぜあんなに優秀な若者たちが」ではなくして「なぜあんなに順風満帆な人生を生き、宗教など必要とはしない若者たちが」ということにある。
これが、オウム事件のふた昔以上前に起きた連合赤軍事件やあさま山荘事件なら、犯人たちの動機はよくわかる。高学歴の若者が多かったという意味でオウム事件と同じようだが、実態は似て非なるものであった。この事件では、犯人、そしてリンチで殺害された被害者の多くは判で押したように同じような経歴をたどっている。それは進学校の優等生から受験に失敗したという経歴である。受験失敗が社会の中での成功へのあきらめ、そして社会転覆の思想への共感という経緯をたどったとしても、当時の状況を考えればさほど不思議ではなかった。
そうしたものと比較しても、オウム事件のエリートと言われる実行犯達は、まるでつるりとして宗教に傾倒していった背景も、犯罪への動機もまるで見えなかった。それが不気味である。
(オウム事件の実行犯も連合赤軍事件の永田洋子と同様、死刑執行がなされずに逃げ切れると思っていたのだが…。)