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カテゴリ:雑感
ニュースサイトによると今年の7月から9月のGDP成長率は年齢つ0.2%増だという。オリンピックまで1年をきった時点でこれだったら、オリンピック後の反動が恐ろしい。
1964年のオリンピックの頃の世相は子供心にも覚えている。 東京の道路は急速に整備されていった。そのせいか建設業界は特に景気がよく、クラスでも〇〇ちゃんの家って金持ちなんだよといわれている子がいて、その子の父親は建設業界だったような…。道路だけではなく、オリンピックに間に合わせるように新幹線も開業した。これは「夢の超特急」と呼ばれ、乗ること自体が夢のようなものだった。教師が「新幹線なんていう金持ちしか乗れないものを作るよりも地方の単線を複線化する方が先じゃないの」と憤懣やるかたない調子で言っていたのを覚えている。当時は飛行機もそうなのだが、新幹線もやはり金持ちしか乗れない乗り物であった。 オリンピックだ街をきれいにしよう…なんていう標語とともにオリンピックがやってきた。オリンピック音頭は大流行で子供まで知っていたのだから、ほとんどが知っていたのだろう。 子供向けの漫画雑誌にはそれにあわせて簡単な英会話とか外国人の見分け方なんていう特集記事もあった。時計をよく見るのはドイツ人だ…なんて今から思えば噴飯ものだったが。 競技そのものはあまり関心がなく、女子バレーボール決勝の日ソ戦は教室のテレビでも見たのだが、それを中継だとばかり思ってみていたのは自分ひとりだったようだ。ほとんどの人は家族観戦で夜見ていたのだが、どうもそのときはそっぽむいていたようで覚えていない。それに見てもルールってわかんなかったし。 ウルトラCやオレについて来いが流行語になり、子供の間では学校の椅子をつかった重量挙げごっこや鉄棒のオリンピックごっこが大流行した。学年一水泳の得意な子の夢はオリンピック選手になり、そしてオリンピックは終わった。女子バレーの監督が参議院選挙でトップ当選をしたり、バレーボールに打ち込む少女を主人公にした漫画やドラマが流行ったのは後の話である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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東京オリンピック女子バレーの決勝戦の夜。
試合終了後の興奮冷めやらぬ時刻。 周辺はサイレンの猛烈な音に包まれました。 自宅の前に飛び出すと、自分の小学校が猛火に崩れ落ちつつあります。 児童数2100人のマンモス小学校でした。 数日後に登校した際、焼け焦げた二宮尊徳の立像が、ポツンと残っていました。 オリンピックの開会式や主な競技は、教室のテレビで見てましたね。 それと、自宅でも見ることが出来るように、午後は授業打ち切りでした。 「勉強よりも二度と見ることのできないオリンピックを」が文部省の方針でした。 教室で盛り上がっていた我々に、「壊滅の序曲」が迫っていたのでした.... (2019年11月18日 05時19分49秒)
クロンシュタットさんへ
あ、それは確かに決勝は夜でしたね。 家のテレビもついていたはずなのですが、あの時何をやっていたんだか…まるで覚えていません。その後、学校のテレビで録画を見たのですが、ずっと長いことそれが生中継だと思っていました。みんなで日本の応援をしていましたが、自分以外は結果を知っていたんですねw。 (2019年11月18日 10時11分01秒)
田舎なので関連工事もなく経済的な恩恵はなかったです。
まだSLが走っていました。修学旅行もSLでした。 聖火ランナーごっこが流行りました。 家のテレビはまだ14インチの白黒でした。 メーカーはコロンビア。 学校も白黒で、教室でマラソンを見たのを覚えています。 職員室では、つけっぱなしでした。 1964年は、五輪の前に、国体や地震があった年でした。 来年は、首都直下地震がないことを祈ります。 (2019年11月19日 22時57分21秒)
maki5417さんへ
聖火ランナーごっこですか。学校によって違うのですね。教室の椅子を使った重量挙げごっこは大流行りで芸達者もいて面白かったですよ。あの当時はテレビは圧倒的に白黒でカラーテレビは市販されていましたが普及はまだまだでした。 (2019年11月20日 07時13分03秒) |