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カテゴリ:雑感
よく使われる言葉なのだが、よく考えるとわからない言葉がある。 大衆文学と純文学というのもそのうちの一つかもしれない。 ネットで見ると、最初に目についた説明では、純文学は国語の教科書に載っている作家で芸術性が高いとされるもの、大衆文学は今でいうエンタメで面白い読み物をさすとある。国語の教科書に載っているかどうかが基準というのなら、純文学を決めるのは教科書会社なのかしらと思うし、大衆文学が面白い読み物なら純文学は面白くない読み物なのかとも思うし、どうもよくわからない。 また、別の説明では、大衆文学というのは「大衆に喜んでもらえることを目的とした小説」とある。しかし、本というものは喜んで読むようなものでなければ売れないし、職業小説家であるならば売れるものを書こうとするのが普通ではないか。読者に大衆と非大衆の区別などないので、この定義だとすべて職業的に書かれる小説は大衆小説になるのではないか。 それ以外に、よくいわれる大衆小説の特徴として、ご都合主義的なストーリーとか典型的な人物像ということもいわれる。しかし、ご都合主義的な展開がないと、そもそも物語というものは生まれない。「アンナカレーニナ」で兄夫婦の家庭内のごたごたを仲裁するために汽車に乗った人妻がそこで不倫相手となる青年に出会うというのもご都合主義だが、これをもって大衆小説だという人もいないだろう。それでも、しいて定義するとすれば、ストーリーの面白さに重点が置かれ、人間を描くことにはあまり重点を置いていないのが大衆小説ということになるのかもしれない。たしかに純文学にはストーリーのないものもあり、それでも読まれている純文学はストーリーに代わる面白さがある。じゃあ、逆も真かといえば、そんなことはなく、ストーリーの面白さは純文学性を否定しない。結局のところ、トリックだけで読ませる推理小説やアイディアだけで読ませるSFは別にして、ほとんどの小説は人間を描き、社会を描き、時代を描くという意味での文学性があり、そうしたものがないと、とうてい読まれないのではないか。誰も読みたくないものは純文学でも大衆文学でもない。 長い年月にわたり人々に愛されてきたものをみれば、「源氏物語」には今日の恋愛ドラマにもみられる要素があるし、シェークスピアの一連の戯曲には、後世の大衆小説のプロットの萌芽とみられるものがかなりある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年09月10日 17時30分10秒
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