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カテゴリ:雑感
昔、加賀乙彦の長編「湿原」を読んだことがある。冤罪を軸とした物語であるが、国家と個人、組織と個人などいろいろなことを考えさせられる。印象的だったのは、冤罪にかかわる警察官、検察官に悪人は誰一人いない。皆よき社会人、よき家庭人、そしてよき友人、隣人である。冤罪の被害者は窃盗前科のある男と精神病入院歴のある女で、この二人が小説の主人公である。 最初に自白を引き出す刑事は捜査のコツとして、自分でとにかく容疑者が犯人であることを信じ、その固い信念で自白を迫ると言う。別件逮捕、そして長期間の取調べで自白に至る心理はこの小説のよみどころとなっている。この小説では第一審有罪、第二審無罪となるのであるが、冤罪が濃厚になると、警察キャリアはノンキャリア刑事の強引な捜査にひっぱられたと責任転嫁を始める。そんなものなのかもしれない。 冤罪は国家がものすごい暴力装置として一私人に襲い掛かるものであって、被害者からみればこれ以上に不条理な不幸はなかなかない。なぜ冤罪が起きるのかというメカニズムはもっと検証すべきだろう。あってはならないことだから考えないというのではなく、ありうることだから、なぜ起きるのかを徹底的に調査することが必要ではないのだろうか。 捜査や訴訟に携わった方の多くは鬼籍に入っているのかもしれないが、当時若かった人の中には存命の方もいらっしゃることだろう。そうした人々の中には役立つ話の出来る方もいるかもしれない。当時、冤罪を信じていたという裁判官の美談だけで終わってよいとは思えない。 なお、裁判員という制度にどうしても疑問と違和感を持つのは、刑事裁判における冤罪の可能性がある。冤罪の多くは偏見や思い込みが背景にあり、市井の人である裁判員は裁判官以上にそうした偏見や思い込みにとらわれている場合が多い。裁判員制度は冤罪防止には役に立つとは思えない。そして抽選に選ばれただけの市井人には、後に冤罪が発覚したとしても、いかなる意味でも責任を問うのは不適当であろう。刑事裁判における判断は非常に重い。こうしたものを市井人に関与させる裁判員制度はやはりおかしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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