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カテゴリ:日記
1月29日の今日は何の日~~♪
★現実★ 【誕生日編】 ▲小林幹英【こばやしかんえい】(1976年~) 元広島カープに所属したプロ野球選手(投手/98年~05年)。新潟明訓高校の出身。ドラフト4位でカープに入団。投球時にグラブを突き出す独特のフォームで、1年目、開幕戦で白星を挙げ、セ・リーグ通算9人目の新人投手開幕戦勝利を達成。その後も、セットアップー、クローザーで大活躍し、新人王こそ逃すも、9勝6敗18S防御率2.87の好成績を残した。その後も活躍を期待されたが、暫くは、怪我などで成績を落とす。のち中継ぎとして復活し、2年連続50試合以上登板するなど、成績を挙げる。しかし、再び怪我に悩まされ、05年に戦力外通告を受け、引退する。引退後、コーチとしてチームに残り、06年には、投手コーチとなり、ブルペン投手コーチの澤崎俊和と共に、12球団で最も若い投手コーチコンビとなった。小林選手は、出身校の関係で、水島新司先生の漫画『ドカベン プロ野球編』や『あぶさん』で優遇され、『ドカベン』の特別編では、新潟明訓高校時代の小林投手と、明訓高校ナインが対戦する話があります。『プロ野球編』でも、98年オールスター戦で岩鬼や山田などを抑える活躍を見せています。ちなみに、岩鬼との約束(?)は、果せず終わりましたね~~ ちなみに、うちは、小林投手のあの独特なフォームが大好きです。そのため、かつてのパワプロでは、よく小林投手を使っており、いつの間にか、小林選手のファンになっていました。あと名前の響きも良かった事も小林投手が好きになった理由の一つです。 【忌日編】 ■羽柴秀勝【はしばひでかつ】(1568年~1586年) 安土桃山時代の武将。織田信長の四男。幼名は、於次で、跡取りがいなかった秀吉の養子となる。備中児島城攻めで初陣し、水攻めで名高い高松城攻めにも参加。信長が本能寺で横死すると、秀吉に、信長の子である事を政治利用され、山崎の戦いでは、旗印として信孝と共に担がれ、秀吉が主導した信長の葬儀でも、喪主を務めた。清洲会議後は、丹波亀山城を与えられ、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いにも参加。しかし、元々病弱だったらしく、それ以降は、病気で臥せ、18歳でこの世を去る。 仮想戦記小説での秀勝は、百目鬼涼一郎先生の『新豊臣戦国志』の主人公で、病死せず、暗殺された秀吉の跡を継ぐと言う物語があります。あと、尾山晴紀先生の『織田戦国志』や河丸裕次郎先生の『新織田戦記』では、秀吉の子としての意地を見せ、主人公で同じ織田一族の信孝(『織田戦国志』)や勝長(『新織田戦記』)と戦っています。 なお、画像は、仮想戦記小説『新豊臣戦国志』の羽柴秀勝です。 ■井上源三郎【いのうえげんざぶろう】(1829年4月4日~1868年) 幕末の武士で、新撰組六番隊組長。八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男で、諱は一武。1847年頃に天然理心流の道場に入門し、近藤勇、土方歳三の兄弟子で、親交を深め、1860年頃に免許皆伝。近藤達と共に浪士組に参加。芹沢鴨粛清、新撰組の結成後は、副長助勤となり、池田屋事件でも、土方隊で援軍として駈けつけ、浪士を8人捕縛するなど活躍。再編成で六番隊組長になり、幕臣に取り立ての際には、七十俵三人扶持が与えられる。隊内では、対外的な職務や要人の接待などの総務を担当しており、近藤達の信頼はとても厚く、彼も良く補佐している。性格は、無口で、頑固な所もあったが、人は非常に良く、若い隊士から人望も厚かった。その後、鳥羽・伏見の戦いに参加し、淀千両松で官軍と戦い(淀千両松の戦い)、敵の銃弾を腹部に受けて戦死する。 なお、画像は、ゲーム『薄桜鬼』の井上源三郎です。 【記念日・年中行事編】 ◎人口調査記念日(日本) 由来は、1872年の今日、日本初の全国戸籍調査が実施された事から。 フィクション編はこちらへ~♪ ↑もし宜しければ押してやってください!! 注意:一部の方が、よく本ブログの日記内容と全く関係無い(特にアダルト関係)コメントを送ってこられますが、本ブログは、その様な物を一切必要としておりませんので、絶対に送らないで下さい。その様なコメントがあった場合は、見つけ次第、即消去させて頂きます。また、掲示板へのその様なコメントも同様に禁止しており、あった場合は、即消去させて頂きます。 どうか、ご理解とご協力をお願いします(__)ペコリ(__)ぺこり お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.01.29 22:00:30
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