潜在意識の中のユートピア
なんか、ひとつ前のブログ記事のアクセス数を見たらすごいことになっていて驚きました。普段は、芸能に関することを書いてもアクセス数が100は滅多に超えないブログですので、ほぼ、題名に無条件に反応してしまった方がとても多かったのでしょうね。それだけ、竹内結子の死のインパクトが強すぎたのでしょう。ここで、唐突にですが、私、昔、スーパーファミコンゲーム「ゼルダの伝説」にはまったことがありました。ゲームをプレイしていると、自分がゲームの景色の中に入り込んだような錯覚におちいり、でも、すごく心地よい気分だったことを覚えています。さらに、このようなことを書くと変態かと思われそうで怖いのですが、昔のグラビアアイドルオタク気質を引きづったまま還暦をとうに過ぎた私ですが、恥ずかしながら、いまだにグラビアアイドルの動画を見ることが多々あります。非日常的な風景の中でグラビアアイドルが動き回り、そして、バックにストリングギターの演奏が流れ続ける。自分が、見知らぬ土地に旅行でもしているかのごとくその世界の中に入り込んだような錯覚におちいり、実に、やはり、心地いいんですね。で、それが何なんだと言われそうなんですが、映画やドラマの俳優にとって、出演した映画やドラマは、彼や彼女たちの潜在意識の中で一種のユートピアとして作り上げられているのでないかということです。そのユートピアが、日常の煩わしさや困難に直面した時に、ふと、一瞬、心に浮かんできて、彼や彼女の心を支配し、また、なんとも言えぬ心地よい気分をもたらすのではないかと。よく、現実逃避ということが言われますよね。でも、その現実逃避も、結局は、現実逃避する人の日常によって培われた想像力の域を超えないのでしょう。私などは、先に述べたようなことの域を出ないわけです。ですから、現実逃避としてゲームにのめり込んだからといって、必ずしも、心地よい気分を得られるとも限りません。竹内結子の場合がどうなのかはわかりませんが、俳優が現実逃避するするときには、その出演した映画やドラマに影響された想像力が強く働くのではないでしょうか?その非日常の日々、作り物とはいえ、彼や彼女たちが演技によって作り上げた現実に似せられた映画やドラマですからね。ちょっとしたことで厭世的になり、そうなると、そのユートピアが舞い降りてくる。ユートピアとはいえ、より現実には近いわけですから、そのなるハードルも低いのではないか。それは、共演者であったり、映画やドラマの撮影の過程であったりするのでしょう。その舞い降りたユートピアの中で心地よい気分が拡がっていく。それが、彼または彼女を誘い、あやしくも心地よいユートピアの先の世界に引きずり込んでしまうのかもしれませんね。少なくとも、芦名星の場合には、その傾向が見られますよね。このようなことを書くと、不謹慎として大ヒンシュクを買うかもしれませんが、そういった心地よい気分のもとに逝ってしまったのではないのかと、私は思うのです。(文中、敬称略)