今日行われた準決勝、第1試合。日本文理高vs県岐阜商高戦。
県岐阜商 000 000 001 =1
日本文理 000 011 00X =2
(県)山田、(日)伊藤
両投手、見事な投球だった。そしてほんのわずかな差で日本文理高が
勝利を勝ち取り、新潟勢としては初の決勝進出となった。
印象的だったのは9回表、二死一塁の場面に代打で登場した県岐阜商・
古川隼也(3年)のこと。 彼の気持ちを込めた一打はレフトオーバーの
二塁打に。チームにとって貴重な1点を奪うことができた。
二塁ベースに立った古川、目から涙が溢れるシーンをテレビカメラがアップ
で捕らえていた。ヒットを打てた嬉しさはもちろん、それ以外にも、これまでの
悔しいことやら苦労したことなど、様々な思いが脳裏に甦ったんだろうな、と
ボクにはそう思えた。
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さて、話は変わる。
途中から見たこの試合だったけど、ボクは二塁塁審の顔を見て、
「あれは、堅田さんじゃなかろうか」と思った。それは堅田外司昭さんのこと。
先日見たNHKテレビ『にんげんドキュメント』~球児たちの延長戦25年目の
星稜対箕島~』に出ていたので、よくその顔は憶えている。
昨日(8月22日)のブログで書いた1979年夏の甲子園、星稜高のエースは
この堅田さんだった。延長18回、208球をひとりで投げ抜いたが、結局敗戦
投手となった。そして今、パナソニックに勤務する傍ら、高校野球の審判も
務めている。
1979年、夏の甲子園3回戦。
(延長18回)
星稜 000 100 000 001 000 100 =3
箕島 000 100 000 001 000 101X=4
そしてその後、この試合で主審を務めた永野元玄さんと堅田の間にドラマが
あった。試合終了後、永野さんは選手が退出する出口で堅田を待った。そして、
堅田を見つけると、この試合で使っていたボールを一個手渡したのだ。
主審が投手に記念ボールを渡すことなど滅多にない。でも、延長18回を投げ
抜き、そして敗れた堅田に主審自身が感情移入したのには理由がある。それは
(疲労で)堅田の球威が落ちてくるのを間近かで見ていた目撃者だったから。
■『スローカーブを、もう一度』(山際淳司氏、角川文庫)に、永野さんのコメントが
ある。
「私のベルトのところには、、ボールを入れる袋が下がっていまして、そこには
いつも4個のボールを入れているんです。ニューボールもあれば、一度使った
ボールもある。ここぞという局面で、ボールを交換するときは、私は使い古した
ボールを渡すようにしている。新しいボールは滑るからです」
「そして18回の表に星稜は得点機を逃して、その裏、つまり、18回の裏の堅田
君の一球目を見て、私は点が入るかもしれないと思いました。予感がするんですね。
私は投げやすいボールを渡したはずです。でも、球が死んでいた。17回までの
堅田君の投球とは明らかに違うんですね。疲労がたまっていたのかもしれません。
すべての球が死んでいました」
結局、箕島は延長18回に適時打が飛び出して勝利を決めた。
甲子園、審判と選手にもいろいろなドラマがあるものだ。
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◇ 「ボクにとっての日本野球史」 (2009.7.1)、 INDEXはこちらへ。
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