■昨日、センバツの組み合わせが決まった。3日目の第3試合、平安ー浦和学院は、一昨年と昨年の優勝校が対戦する屈指の好カード。両校が1回戦で戦うのはもったいない気もするが、優勝の行方を占う重要な一戦になりそうだ。
今日付けの朝日新聞は、1995年に起きた阪神大震災からたった2ヶ月でセンバツ開催に漕ぎつけた軌跡を振り返っていた。曰く、多くのイベントが中止や自粛に追い込まれる中でも開催できた理由は、戦後に高野連を設立し自主運営を行ってきたからだと。他のイベントはスポンサーのひも付きが多いが、高校野球にスポンサーはない。放映権料もない。大会中の入場料収入だけで運営されているため、高野連の判断だけで開催に踏み切れたという。たしかに頭を下げる相手が少なければ、それだけ自分でコントロール可能な幅は広がるといえる。まさに、これは高野連の強みだ。
■しかし戦時下の事情は大きく違っていた。戦禍が拡大した昭和16年夏から20年まで大会が中止に追い込まれた。その間、実は昭和17年夏だけは開催されたが、それは「戦意高揚」の名のもとに国が開催権を朝日から奪ったため、以降、高校野球の正史から抹殺された、後に『幻の甲子園』と呼ばれる大会だった。
以下、『幻の甲子園 戦時下の球児たち』(早坂隆著、文芸春秋)より。
文部省と外郭団体の大日本学徒体育振興会が主催者となり、大会名称も「大日本学徒体育振興大会」に変更した。戦前からの中等野球、戦後の高校野球という長い歴史の中で、この昭和17年夏の大会だけが「国」による主催。正式名称は、本来名乗るべき「第28回大会」ではなく、「第1回全国中等学校体育大会野球大会」と銘打たれた。つまりこの大会は、全国中等学校野球連盟の公認する大会としては認められなかったのである。朝日新聞社の記録は今も「昭和16年から20年戦争で中止」となっている。昭和17年の大会が『幻の甲子園』と呼ばれる所以である。
■この大会は異例づくめだった。「戦意高揚」の名のもと、センターのスコアボードの左上には「勝って兜の緒を締めよ」、右上には「戦ひ抜かう大東亜戦」とあり、さらにスタンドには「防諜は民一億の非常戦」といったスローガンもあった。
ルールも異例づくめ。大会を通じて「選手」ではなく「戦士」と呼ぶこととされた。そして「打者は投手の投球をよけてはならない」というものもあった。「突撃精神に反することはいけない」がその根拠。さらに「ベンチの控え選手との交代は禁止」というものまであった。理由は「選手は最後まで死力を尽くして戦え」のため。
■しかし戦時下であっても、そして「戦意高揚」の名のもとルールが改悪されても、開会式のスタンドは、立錐の余地のないほど超満員に膨れ上がった。自らの将来へ不安も募る中で、多くの人たちが野球に何かを求めていた。「これが見納めだ」との思いで甲子園に来ていた人もいた。場内は歓声と拍手に包まれ。選手たちはもちろんだが、ファンにとっても待ちわびた大会であることに変わりはなかった。
ちなみに16校が出場したこの大会は、決勝を徳島商と平安中が戦い、最終回二死満塁から押し出しを得て徳島商が優勝した。
繰り返しになるが、この大会は正史に記録されていない。従い、徳島県勢の初優勝は昭和57年の池田高校である、この時優勝した徳島商ではない。また、平安中の富樫淳が一回戦の市岡中戦で達成したノーヒットノーランも大会史には存在していない。そして、主催者の違いから真紅の大優勝旗もなかった。手渡されたのは一枚の表彰状と文部省から贈られた小さな旗だけだった。
これらすべて『幻の甲子園』といわれる所以である。
(写真)スコアボードの左上に「勝って兜の緒を締めよ」、右上に「戦ひ抜かう大東亜戦」の文字が見える。(『幻の甲子園』より)
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