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カテゴリ:昭和期・中間小説
『悉皆屋康吉』舟橋聖一(文春文庫) 初読の作家であります。 いつも行く所じゃない古書店で手に入れた文庫本ですが、なぜこの本が目についたかというと、以前読んだ日本文学史の本の中に、本作に言及した部分があったのを覚えていたからです。 昭和二十年、当然といえば当然でしょうが、日本文学関係「業界」は相次ぐ雑誌の休刊等で全く壊滅状況にありました。 そんな中で日本文学の伝統を守った作家は、ほとんど例外的に太宰治しかいなかったと書かれていました。そして、太宰の作品として挙げられていたのが、こんなのでした。 「竹青」(『大東亜文学』一月号) 『新釈諸国噺』(一月刊) 『惜別』(九月刊) 『お伽草子』(十月刊) 今回の読書報告のテーマとは大きく離れるのですが、この昭和二十年発表または刊行の太宰治の一連の作品名を見ていますと、太宰という作家の持つオリジナリティの、他と大きく異なり傑出したありように、思わず胸を撲たれるようです。 閑話休題、話を戻しますが、上記の太宰作品の後に、この『悉皆屋康吉』の名が、かろうじて文学の良心を守った作品として挙げられていました。 そして今回の読書となった運びであります。 さて、一読。あたかも「ワン・シッティング(一息で読める様をいう表現)」のような、とても滑らかな読み心地の文が続きました。 明治の終わりから、大正そして昭和初期という時代を背景にしつつ、「悉皆屋」という、今の職業で言えば「和服コーディネーター」の仕事が、和服模様の沢山の専門用語を随所に散りばめながらとても華やかに描かれていく様子は、それなりにテンポよく、そして心地よく読み進めることを可能にしました。 ただ、どうなんでしょう。そんな業界の「人情話」的な展開だけでは、やや「食い足りない」と感じるのは、僕のわがままなんでしょうか。 僕は作品中盤あたりから、本来ならばもっと感動的な部分になるはずが、不十分なままに燃え残っている感じを持つようになりました。 まるで因縁をつけるようにこんな事を言い出すのは、「木に縁りて魚を求める」みたいなものかなとも思いつつ、やはり、内容的な深まりとか感動とか言った言葉に相当するものが、少し欠けると感じました。 特に終盤は、書き急ぎか息が切れたせいか、表現や展開に精彩を欠いた部分が目立ちました。それは、主人公の「芸術至上主義的生き方」が、人間を伴った描写として充分に書かれていない弱みであります。 例えば次の表現は、中年期の主人公・康吉が、自らの仕事に一応の目鼻を付けて、さらに今後いかに進んでいくべきかを女房・お喜多と語り合う場面です。 「でも、考え方ではよ、鶴むら染っていったって、一部の人たちには、愛玩されているでしょうけれど、まだ、大衆的な人気というわけにはいかないわね。そりゃア、あなたの気持ちからいえば、大衆性なんてものは、軽蔑していらっしゃるにちがいないわ。それはよくわかってますけど、鶴むら染の社会的存在っていうものが、強いフットライトを浴びることも、決して悪いことじゃないと、おもうの」 と、お喜多はいつになく、力をこめていうのだった。 「それは私も考えてる。大衆の俗悪に迎合するのでは困るが、そうではなくて、自分の仕事を、なるべく、多くの人の中へ、行きわたらせることが、いいことだとは信じている。今のままでは、結局、一部の嗜好をとらえたというだけで、長い目で見ると自己満足に陥ちているのかもしれない」 これは炬燵に入っての夫婦の会話なんですが、ちょっと「やりすぎ」じゃあないですか。小説の表現としてこなれていないことはないですか。 「社会的存在」なんて単語は、別に学問をしたわけでもない明治生まれの「悉皆屋」の奥さんが普通に使う表現なんですかね。作者が直接顔を出しすぎているんじゃないでしょうか。 同様の作者の「顔出し」が、モラリスティックなまとめを目指して、終盤の展開を貧弱にしてしまった感は否めません。 ただしそれこそが、昭和二十年の「文学的限界」なのかも知れません。 さてそのように考えますと、僕の述べた作品への不満など、今の時代だから言える勝手な言い分でありましょう。 繰り返しますが、時代の文学的状況が壊滅状態の中で書かれた作品であります。 であるならば、本作を見事と言うことについては、全く吝かではありません。 そして、上記に掠るように触れただけですが、太宰治の「凄さ」についても、改めて。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 /font> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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