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2013.09.14
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カテゴリ:大正期・白樺派

  『竹沢先生という人』長与善郎(岩波文庫)

 例えばこんなことが書かれています。

 「ねえ。君は仏様になりたいと思うかい。」
 黙然としていた先生はなんと思ったかだしぬけにこう言って、また自分の顔を見た。

 「さみしいという感じは、だが結局人間には必要なんだろう。」と先生はある時言った。「それがなかったら人間はあこがれというものを持たず、従って決して人生の深さを感じる事はできないだろう。その人の見る神の高さはその人の感じるさみしさの深さに比例するもんだ。」

 (妻が、お妾を何人も持っているお金持ちも幸福なのかと尋ねたのに対して)
 (略)先生は楽に歩きながら言った。「そりゃまたそのはずさ。富貴である事はたしかに貧賤である事よりゃ幸福であるべきはずの、結構なこったからナ。ただし、そういう幼稚な幸福者にはとかく幸福ってもののいちばん根本的な条件が欠けやすいだけの事だ。」
 「……て言うと?」
 「そりゃ何かって言やアほかでもない、安心さ。」


 小説を読む楽しみの一つに、何らかの意味で優れた登場人物に啓蒙される喜びってのがあると思うのですが、どうでしょうか。
 例えば漱石の『三四郎』には広田先生という人物が出てきて、人生観、社会観、女性観など様々な考えを語ります。我々読者は、小説中の他の人物達と一緒に、広田先生の様々な思想に耳を傾けます。
 そしてそんな場面を読むことは、『三四郎』の魅力の一つとなっています。

 そんなことを思って、冒頭の文章を読むと、これらの文章もなかなか興味深いですよね。
 しかし、しかし、こんなやりとりが作品のほとんどを占めているとすると、どうでしょう。
 実は『竹沢先生という人』という作品は、そんな小説であります。

 ……んー、ユニークといえば、まことにユニークな作品でありますねー。
 現代小説ではちょっと類を見ない作品じゃないでしょうかね。(もっとも私は現代小説、ここ数年間くらいの間に発表された小説というのは、村上春樹以外はほぼ読んだことがないんですがー。)

 明治以降の近代日本文学史の中で考えるとどうでしょうか。
 似た感じの小説を思い出していくと、同じく白樺派の武者小路実篤の『幸福者』あたりが浮かんできます。同じ白樺派だというのは、決して偶然ではないですよね。

 順を追ってちょっと考えてみたいと思います。
 まず、現代小説にこんな作品がないと言う意味ですが、それはこんな事じゃないでしょうかね。
 つまり現代では、こういった一種「倫理的」な文章は、小説ではなくて例えば宗教的な書籍が、それを必要としている読者の需要を満たしているんじゃないかということです。

 では、明治から大正あたりを中心に、昔はなぜ白樺派がその責を果たしたのか。いいかえれば、その頃の白樺派が、人々に期待されていたものは何なのか。
 さらにもう一歩突っ込んでいえば、あの時代に人々(すべての人々ではなくても)が白樺派をはじめとして小説に求めていたものが、なぜ現代小説には求められないのか。

 上述の『三四郎』の広田先生が、こんなことを言っています。

 「(略)近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。吾々の書生をしている頃には、する事なす事一として人を離れたことはなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな人本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(中略)
 昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪いことでも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫としている。(略)」


 これは明治時代の「近頃」ですが、この「露悪家」が本当の近頃(現代)において、全く日本国全体(あるいは全世界?)の傾向になっていることは、インターネットなどを思い浮かべるまでもなく明らかであります。

 結局「倫理」というものは、実際のところ個人主義が徹底していけば、広く汎用性を失っていくということでしょうか。

 なるほど、この度私は岩波文庫で380ページほどの本書を読みつつ、実はこんな倫理的な事の描かれている部分が(そしてそれは本書のほとんどなんですが)、かなり読みづらかったのは事実であります。


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Last updated  2013.09.14 18:52:33
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