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2018.03.30
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カテゴリ:明治期・明治末期
  『あきらめ・木乃伊の口紅』田村俊子(岩波文庫)

 本書の解説は、1952年の日付がある佐多稲子の文章ですが、冒頭近くにこんな表現があります。

​ 勿論、田村俊子は、今日すでに、明治大正の文学史上に、その評価を得ている作家である。が、その作品の普及は多くなされていない。しかも俊子の作品の与えた感銘の、察知される当時の華やかさにくらべれば、今日その作品は読まれていない。田村俊子は、樋口一葉につづくひとりの才能豊かな婦人作家として、今日正当に読みつがれるべき作家である。​

 明治以降の近代日本文学史の中の作家をぽつぽつと読み続けていますと、この手の作家は過去にけっこう沢山いることを知ります。しかしその中の、「今日その作品は読まれていない」ことについては、歴史的な価値はあれどもしかしそれに尽きるという作品と、なるほど今ももう少し読まれてもよいのにと感じる作品とがあります。
 さて田村俊子はどちらでしょうか。
 
 この度私は初めて田村俊子の作品を読みました。
 冒頭の岩波文庫には、長短6編の小説が収録されています。
 読んだばかりの私の感想ですが、中に瑞々しい描写や広がりのある哀感もあったりして、もうこれは現代では読めないだろうと感じる作品は、特にありませんでした。ただしそれは、明治末期の社会的風俗を前提に読めば、ということでもあります。

 本書に引きつけて明治末期の社会的風俗を前提にするとは、つまり、その社会の中で自立・自律を求めた女性が自分の力で生きていくことの、あるいは世の中に何事かを成すことの、いかに困難であるかを知った上で読むということです。

 再び上記の佐多稲子の解説文に戻りますが、田村俊子の作品の「当時の華やかさ」は、実は大正時代初期のほんの五、六年でしかありません。
 その終盤は、スキャンダラスな私生活が実態以上に取り上げられて(保守的な社会モラルによる指弾)筆が荒れていき、その才能は限界を示さずにはいられなくなりました。

 その原因について、もちろん結局は才能の質と量であるということはいえます。
 田村俊子は明治15年生まれ没年は昭和20年です。例えばよく似た生没年の女流作家に与謝野晶子がいますが(明治11年~昭和17年)、ほぼ同時代を生きながら、現代での両者の評価の格段の違いは、やはり才能の質と量の差としか言えないだろうとは思います。

 与謝野晶子以外でも、私は今回田村俊子の小説を読んだのにつられて、同時代に生きた様々な女性について他の本を読んでみたのですが、中で名前のみ何となく知っていた高群逸枝(明治27年~昭和39年)の生涯が、なかなか興味深くありました。

 社会への出始めは出身地熊本県の代用教員で、その後才を認められた詩・和歌の道に進むべく上京するも詩想の限界からアナーキズム評論家となります。
 しかし高群は37歳で、それまでの一切の交遊を断ち切って女性史研究に没頭し、そして女性史学不朽の名著を著し第一人者となりました。
 そんな高群が書いた随筆に、こんな一文があります。

​ 根本の問題は学問の自由、真理の探究であるが、学者がつねに政治的制圧をうけることはまぬがれえない。​

 田村と高群を、比較せねばならない理由は全くありませんが、やはりここにも才能の質と量、言い換えれば「志の高さ」の圧倒的な落差があるような気がします。

 しかし、持って生まれた才能だけにそこまで責を負わせるのは酷ではないかと考えた時、次に浮かぶのは人生の伴走者の選択でありましょうか。

 上記に挙げた与謝野晶子しかり、また田村俊子のやはり同時代作家として岡本かの子(明治22年~昭和14年)がいますが、彼女たちの「文学的熟成」には、人生上の伴走者つまり伴侶の人柄の質(人間性や価値観)を外すことはできないでしょう。(晶子、かの子両者の伴侶の芸術的な才能は不問として。)
 そして俊子は、たぶんここでもあまり恵まれませんでした。

 本書を読み終え、そして何人かの女性作家とその生きた時代とを調べた私は、田村俊子とは時代が少しずれるのですが尾崎翠(明治29年~昭和46年。この作家こそ歴史の中から復活し、現在も読み継がれている作家です)の生涯を知った時にも感じた人間の運命の痛ましさと残酷を、今回も改めて感じたのでありました。


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Last updated  2018.03.30 10:28:05
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