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カテゴリ:昭和期・後半男性
『街とその不確かな壁』村上春樹(新潮社) さて、村上春樹の不思議な新作長編であります。 不思議なというのは、作品一部(本作品の第一部のところですね)が2回目の書き直し発表、つまり最初の作品から合わせると3バージョンテクストになるという、そんな話だからです。 でもこういう形って、よくよく考えれば、日本文学の中には(外国文学についてはわたくし何も知りませんので)けっこうあるのかな、と。 例えば、短編小説が最初に書かれて、その後長編小説の中にそれが含まれていくってのは、村上氏自身の他作品にもありますし(『ノルウェイの森』なんか)、確か志賀直哉あたりにもそんなのなかったですかね。(『時任謙作』と『暗夜行路』) また短編小説をいろんな雑誌にとびとびに発表して、そのあと一冊の本にして長編小説にするというパターンもあって、その大御所は何といっても川端康成でしょうね。『山の音』とか『千羽鶴』とか。 でも今回の村上作はそれらとも少し違って、でもまあ、これも十分ありなんじゃないかなとは思いながら、ともかく、珍しい形の新作長編小説であります。 第一部が、上記にも触れました、その書き直し部分ですね。 「リメイク」って、言っていいような気もします。 相応しい例えになっているかどうかわからないのですが、例えば横溝正史『八つ墓村』なんて、もーいろんな方が金田一耕助をテレビや映画でなさっているじゃありませんか。 あれを小説として一人の作家がやっている感じですかね。 だから、というか、今回は、バージョンアップした感がありました。しっかり細かく作ってしっかり書き込んでいる感、ですかね。 実は、第一部は全体の七分の二くらいの分量です。(中心は第二部で全体の三分の二くらいの長さ。)だから、読了後の感覚から言えば、第一部はまずしっかり土俵を作ったという感じでありました。(私としては、「きみ」の消失後の「私」の慌てぶりに少しぎこちないものを感じもしましたが……。) そして、満を持してそこから「新作」部分の第二部に入ります。 長いです。重く、暗いです。(初期の村上作品に頻出していたユーモアが、近年の村上長編にほとんどないのは、展開上やむなしのようにも思いますし、もう少し何とかしてほしい感はあります。でも、何個所かだけ私は読んでいてにこっとしましたが。) で、読んでいる私は、少し考え込んでしまうんですね。 まず、二点。 一つ目は、もうざっくり言ってしまうと、これは過去のいろんな村上作品の焼き直しではないのか、設定や展開に、そして登場人物にも、ことごとく既視感があるように感じました。 そして二つ目ですが、近年の村上作にはどんどん幻想性が強くなっている気はしていましたが、本作に至って、なんか幻想性が爆走、というか暴走している気がしました。 そして読者である私は(少なくとも私にとっては)その非リアルの説得力についていけない所がいくつかありました。 それは、少しネガティブに言えば、白けてしまうという感覚であります。 そこでさらに私は、この二点をもとに考えてしまうんですね。 多くの村上ファンのように、私もデビュー作から、新作が出るたびに読んできましたが、そもそも村上作品は、「本当に」どこが魅力なんだろうか、と。 ……ストーリー(展開)、語られ方(文体)、テーマ(これはざっくり喪失、かな)、キャラクター(主人公)……。 どれもそれなりに魅力的ではありますね。 特に、これも多くの人がたぶんそうだったと思いますが、初期の村上作品というのはそのおしゃれな文体が、もー、何とも言えず読んでいて快感でしたねー。 ……うーん、かいかん……きもちいい……。 ほとんどエクスタシー状態……。 しかし、その文体もだんだん後衛に立ち位置を変えて来て、その代わりガチっと描写するような決して悪くない文体になってきました。(諧謔性は薄れましたが……。) と、いうように、わたくし、あれこれ考えたのですね。 で、私が、テレビの時代劇のように放送されるたびについ見てしまう、出版されるたびについ読んでしまう、本当の本当の原因(本文中の表現でいうならば「水面下深くにある、無意識の暗い領域」って、あ、これは無意識じゃないですかね。)は、……、どうでしょう、つまるところ、主人公のキャラクターの魅力なんじゃないか、と。 上記に私は「既視感」という言葉を使いました。 例えば本作の「子易」に、村上過去作品のいろんな登場人物の性格を、「きみ」(喫茶店の彼女もですか)にもやはり村上過去作品の様々なヒロインの姿を重ねてしまったのですが、そんなことを言えば、主人公の「ぼく・私」なんて、ずっと同じ性格設定な気がします。 でも、「ぼく・私」は、いいんですね。 このキャラだから、気持ちよく読めるんですね。 何を矛盾した訳の分からないことを言っているのだと、お怒り、またはお呆れの皆さま、どうもすみません。 再び本文中の表現でいうなら「現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていた」って、これも、ピントはずているかしら。 (ただ、真面目な話、そういう風に同じがいいと感じる作品というのは、文学性という言葉のもとでみた時、はたしてどうなんだろうかという気は、少ししますが。) しかし、少し寂しいことに、近年の村上作品は私にとって(私だけであれば、それはそれでいいことでありましょうが)、ストーリーの幻想性が突出、暴走して、私の中の感情共有が追いついていかず、展開がどこか他人事のように感じられ、そこを何とか主人公のキャラクターの魅力で繋ぎとめながら凌いでいる感じが増していくようで、……少しつらくあります。 私には、本作も、そのようでありました。
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Last updated
2023.10.07 14:58:11
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