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2019.12.12
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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・・玉名南関山鹿
山鹿口の戦い、飫肥隊奮戦地に来ました。33.019925, 130.666030



鍋田口米良隊(飫肥三番)墓所の塁には敵前日の敗を雪がんと激しく之を攻撃せしも、飫肥隊死力を尽くして防戦し敵をして一歩もその地を侵さしめざりき、此の日の戦い官軍死屍銃器を遺棄するものその数幾ばくなるを知らず、午後五時をもって開戦し午後二時に亘りて遂に官軍の敗に帰せり。  薩南血涙史は飫肥隊奮戦の模様(三月十五日)をこう記している。この墓所を塁が此の地である。明治十年の西南の役では田原坂の激戦が余りにも知られているため、山鹿口の戦いは影が薄いが、ここ鍋田一帯の攻防戦は田原坂に劣らぬ激戦だった。南下する小倉十四連隊を迎え撃ち、官軍の拠点南関を攻略せんとする薩軍は知勇兼備、西郷総師の右腕と呼ばれた桐野利秋率いる薩摩第四大隊と宮崎(日南市飫肥)の飫肥隊、熊本協同隊の連合軍約二千五百人、官軍は三浦梧楼少将の第三旅団四千余人、二月二十四日の初戦から薩軍が隈府方面へ退却する三月二十一日までの二十六日間、此の一帯で死闘が展開された。此の墓所の明治十年以前の墓石の殆どが銃砲弾で欠けていることからも戦闘の凄まじさが伺える。  西南の役百十周年を迎えるに当たり、飫肥隊奮戦の一端を碑に記し、憂国の至情に燃えながら悲涙をのんで散華した飫肥隊烈士の御霊に捧ぐ。


お墓の石を弾よけに戦ったようで、墓石が砲弾で砕けた跡が多く残っています。


田原坂と変らない程の戦いがあったようです。今はひっそりとしています。





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最終更新日  2021.02.19 22:10:40
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